武雄市の文化財
おつぼやまこうごいし 1地域:国史跡・城跡
おつぼ山神籠石 指定年月日 昭和41年6月21日 追加:平成16年9月30日
所在地 橘町大字大日

 おつぼ山神籠石は、昭和37年に全国で8番目の神籠石として発見され、翌38年に発掘調査が行われました。その結果、朝鮮式の山城であることが確認され、それまで神域説と山城説で大論争をしていた神籠石の性格に終止符を打った遺跡として学史にその名を残しています。
 おつぼ山神籠石の列石は、総延長が1866メートルあり、このうち北端から南西部にかけて列石が抜けて確認できないところがあります。おつぼ山を取り巻いている列石の個々の石はおよそ高さ70センチメートル、厚さ40センチメートルで、残石の数は1313個です。列石の前面には3メートル間隔で10度内傾させた柱穴があり、城壁となる土塁を築くための板を押さえた柱の穴と考えられます。また、第一土塁の前面では、この柱穴列と列石の間に小礎石が1メートル間隔で発見されていることから、柱穴の柱と小礎石の柱を合掌式に組み合わせて防御柵を構成したとも考えられています。確認された柱穴のうち、第一水門前からは柱根3本が出土しています。おつぼ山神籠石に関する遺物としては唯一のものです。
 列石に使用された石材は、安山岩質の凝(ぎょう)灰(かい)角(かく)礫岩(れきがん)と呼ばれる石で、杵島山の各所でみられるものです。おつぼ山に近い立岩付近がその原石の採集加工地とみられています。
 列石の上には幅九メートルの土塁があり、谷間には水門が設けられ、門跡も2箇所が確認されています。土塁の基礎石としての列石は複雑な山の地形に応じて曲線を描いています。特に、水門の部分がおつぼ山神籠石ほど曲線を描くものは他に例を見ない特徴的なものです。
 神籠石は文献に出てこない遺跡ですので、その築造の時期については異論がありますが、7世紀後半の白村江の戦い(663年)に関連させる説が有力です。
近年の研究成果では、大野城や基肄城などの古代山城とともに百済の大型の山城を参考に造られたことが推測されています。
築城の正確な年代や目的・性格など今日でも謎につつまれた遺跡であり、私たちを歴史のロマンに駆りたててくれる貴重な遺産です。

                     おつぼ山神籠石パンフレットのダウンロード (724KB)



第1水門 第1水門出土柵柱 東門付近
     第1水門                第1水門出土柵柱            東門付近

おつぼ山神籠石全景  発掘調査時の第一土塁前面
   おつぼ山神籠石全景    発掘調査時の第一土塁前面

武雄市教育委員会 文化・学習課文化財係