旧武雄領内に伝承される民俗芸能で、その起源については諸説があり、定かではありませんが、一説に享禄3年(1530)島原の有馬氏が武雄を攻めて住吉城に迫った時、第18代武雄領主後藤純明が夜襲によってこれを破り、その戦勝祝いに足軽たちが即興的に踊ったのが始まりといわれています。その後、永禄6年(1563)有馬氏は第19代武雄領主後藤貴明を島原に招待して暗殺を計画しました。貴明は、家臣たちに踊り衣装を着けさせて同行させ、一応の礼式が終わったところで、踊りを披露し、貴明も踊りながら出て行ってしまった。このときの踊りを「荒踊」というと伝えられており、この頃には踊りとして、一定の形式を整えていたと類推できます。

 現在は、毎年9月の彼岸の中日に各地区の氏神社(中野は磐井八幡社、宇土手は正一位神社、高瀬は松尾神社)で奉納されています。

 荒踊は、モッショ(猛将、模師匠)とカキ(垣)と呼ばれる踊り手と、笛・鉦・モリャーシ(締め太鼓)・大太鼓の囃し方及び謡い手から構成されています。モッショは、先モッショ(2~3人)と後モッショ(1~2人)からなり、踊り手の中心、指揮者となります。その周りにカキが円陣をつくり、謡い手の唄にあわせて、力強く軽快に踊られます。踊りの流れは2系統あり、宇土手・高瀬地区のものは素朴で力強く、武道の型を思わせ、中野地区は優美で手の振りに特色があります。力強く軽快な所作や情緒的な歌詞など、地域的特性が際立ち、伝承も確かな芸能として貴重です。

高瀬の荒踊
高瀬の荒踊
宇土手の荒踊
宇土手の荒踊
中野の荒踊
中野の荒踊

武雄の荒踊リーフレット
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