この記念碑は、自然石の上に亀形の台石を据え、その背中に直方体の記念石碑を載せる独特の亀趺(きふ)形の石造物です。基礎の台石となる亀趺の大きさは、全長1.5m・幅0.6 m・高さ0.4 mで、頭部の「獣首」は武雄側を向き、尻尾が大きく、その先端は上を向いています。また、記念石碑は、その亀趺の据わる方向と並行する形で建っており、高さ1.4m・幅0.5 m・厚さ0.3 mで、上方に0.1 mの張り出しが設けられ、その下に龍文様が浮彫りされています。

 龍の下方に銘文があり、横書きの篆書で「墾田碑」と刻銘され、その下に楷書で26字×11行の碑文が刻まれています。それには、「享和年間(1801〜1803)に、永野村の南荒原を柄崎の相賀照宗が田を開き、池を築いた」などの事績と、それらの碑文そのものが、男谷孝による篆・草場韓(佩川)の撰・川上由の書であることも記されています。

 また、石碑の制作者については、裏面に「塩田馬場下村 筒井幸右衛門」とあり、塩田の石工衆が請け負っていることも刻まれています。

 天保10年復月(1839年11月)に建立されたもので、江戸時代後期に於ける新田開発の実態を知る手がかりとなるばかりでなく、その記念碑建立には幕府あるいは佐賀藩を代表する男谷孝・草場佩川・川上由などの著名な儒学者が係わっていたこと、そして、台石を亀趺とする極めて希少な記念碑の形式であることなど、この建造物が示す歴史的な資料価値は極めて高いといえます。

焼山の墾田碑1

焼山の墾田碑2