御船山

馬場磯吉(生年不詳〜1871)


凌風丸


 凌風丸絵図(複製 武雄市蔵)
 ※原資料は佐嘉神社蔵

 1853(嘉永6)年、アメリカのペリーやロシアのプチャーチンが通商を求めて日本に来航。ともに蒸気船を率いていたことから、日本でも大量かつ迅速な輸送手段として、蒸気船に対する関心が急速に高まった。そうした中、佐賀藩では蒸気船建造の計画が始動、武雄領で領主鍋島茂義を中心として培われた近代科学研究の成果が評価され、1854(安政元)年、茂義が蒸気船製造の責任者に任命された。
 武雄からこのプロジェクトに参加したのが馬場磯吉で、磯吉は武雄鍋島家の鉄砲足軽小川信好の子として生まれ、のち馬場家の養子となった。彼は1855(安政2)年から江戸幕府が長崎に設けた海軍伝習所の伝習にも、48名の佐賀藩伝習生の一人として参加、オランダ国王から幕府に献上された蒸気船スンビン号を使用して操船・造船等の技術を身に付けた。
 昭和の初め頃の牟田悌一編『近世武雄史談』には、茂義の命を受け1840年代半ば頃、長崎で汽船・汽車の製造法を学んだとされ、「在崎数年、業終えて帰るや、公命じて汽船の雛型を造らしめ、之れを御薬園の池に浮べて汽走せしめ…」とも記されている。
 その後、佐賀藩は三重津(佐賀郡川副町、一部諸富町)に海軍所を創設。磯吉は、1863(文久3)年からはその地で田中近江(からくり儀右衛門)らとともに蒸気船の建造に着手、2年後の1865(慶応元)年には、国産初の本格的蒸気船「凌風丸」を完成させた。

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