御船山

石井玄菴(いしいげんあん) (1828〜1892)


薬箱


 明治初期頃の医療用具
  (武雄:清水家資料 武雄市図書館・歴史資料館寄託資料)

 もとは小城郡三里村西川(現在、小城市)の出身。代々、小城晴気(はるけ)出身で足利学校庠主(校長)となった元佶(げんきつ)を開山とする三岳寺(さんがくじ)の修行僧であった。石井良一著『武雄史』に従えば、玄菴は1840(天保11)年、医師を志し小城町思案橋の中村医塾に入り、のち武雄の中村凉庵の名声を聞き、その門を叩いた。しかし石井家は、元佶が京都から下向する際に随従した家柄のため、三岳寺は還俗(げんぞく)(僧籍を離れること)を許さず、玄菴の召還を命じたが、父の浄謙は養子を迎え、玄菴の意思を尊重させたという。
 その後、凉庵のもとから、1849(嘉永2)年、江戸の伊東玄朴の門下などで西洋医学を学び、1853年に帰郷、小城郡右原村に開業した。2年後、凉庵の推挙で武雄の鍋島茂義に招かれ武雄に来住、士籍に入り、1859年に領主の侍医を拝命した。1865(慶応元)年の『石席惣着到』(武雄鍋島家資料)に「三人扶持 定米五石四斗 石井玄庵」の記載がある。
 この間、長崎で蘭医ボールドウィンに師事、1868(慶応4)年の戊辰戦争では、領主茂昌(しげはる)に従い医師として秋田方面に出陣、『茂昌公羽州御陣中記』(武雄鍋島家資料)には、戦後、本隊から離れ帰路に留め置かれた病人・負傷者のため、介護に尽くしたことも記されている。1870(明治3)年、佐賀の医学校に勤務、1874年の佐賀の乱では官軍の軍医を命じられた。翌年、武雄に創設された柄崎梅毒病院の院長となるが、ここが検査院であったことから、温泉地の利を活かす治療病院の必要を説き、自ら150円を義捐(ぎえん)し、1879年、現在の武雄町富岡に柄崎病院を設立。これを武雄の病院の嚆矢(こうし)とする。玄菴は、しかしすでに自身が最新の医術に遅れたものであると自覚、長崎から院長を招き、副院長として経営の傍ら治療に従事した。また1882年、武雄出身の清水由順が長崎医学校を卒業し帰郷すると、副院長の職を譲り医師を廃業、以後は悠々自適の生活を送った。
 『武雄史』には、往時の医師は、医は仁術として診療料は定めず、薬剤費・処置材料も自弁し、患家は無料で治療を受ける者も多かった。反面、盆・正月、患家は相当の謝礼を為す習慣であったとする。玄菴は、この謝礼を妻女に開封させ、内容を知ろうとしなかった。内容を知ることで治療に厚薄を生ずるを潔しとしなかったからだと伝える。

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