御船山

渋川玄耳(しぶかわげんじ)(1872〜1926)


渋川玄耳の著作物類


 渋川玄耳の著作物類(武雄市図書館・歴史資料館蔵)

 歌人・著述家として多数の作品を残した。戸籍は杵島郡西川登村(現在、武雄市西川登町)小田志(こたじ)出身というが、本人の回顧には、山内町宮野であるとする。陶工の渋川柳左衛門を父に生まれた。本名柳次郎。小学校入学前には宮野の定林寺に預けられ成長。1884(明治17)年、文部少輔九鬼隆一が西川登小学校を視察に訪れた際、彼の英才ぶりに驚き特別表彰を行なったとも伝える。
 1889年に上京、国学院や法学院(現在の中央大学)で学び、高等文官と弁護士試験に合格。27歳の時、熊本第六師団法官部に配属、当時、第五高等学校(現在の熊本大学)に赴任していた夏目漱石と出会った。俳句に深い関心を抱き、紫溟吟社(しめいぎんしゃ)の同人として、熊本の自宅に事務所を移し俳誌『銀杏(いちょう)』を発行した。1904年に勃発した日露戦争では、野戦法官として前線を駆け巡り、激烈な戦場の様子を活写した『従軍三年』を出版。東京朝日新聞社主筆(編集局長)池辺三山は、その絶妙な筆致と鋭い感性を見抜き彼を社会部長として招聘した。
 玄耳は、活躍中の夏目漱石を専属作家として獲得に成功、また全く無名の石川啄木を登用して衰退した朝日歌壇を復活させた。後に啄木の『一握の砂』出版にあたっては、ペンネーム薮野椋十(やぶのむくじゅう)の名で序文を寄せている。1912(大正元)年11月、会社内部の対立から退社。新聞の死亡広告欄の横に「今般、小生退社仕り、直ちに支那(当時、日本で使われた中国の呼称)見物に罷り越し候間、告別の礼を欠き候」と掲載、家族を残し中国へ旅立った。1922年、病に倒れ帰国、四年後に東京でジャーナリストとしての波乱の生涯を終えた。生前からの強い希望で、彼はいま、故郷山内町宮野筒江の黒髪山の見える丘の麓に眠っている。

※参考文献 古賀行雄『評伝 渋川玄耳』 森田一雄『野暮たるべきこと−評伝 渋川玄耳−』ほか

 索引へ戻る 

肥前全図


 歴史資料館TOPへ 

Copyright (C) Takeo City Library&Historical Museum