御船山

後藤保明(ごとうやすあきら)(1839〜1885)


後藤保明写真


 後藤保明写真(個人蔵 慶応4(1868)年)
 羽州への出征途中の兵庫(神戸)で撮影されたもの。裏書に「齢三十歳 後藤兵部保明」として「明治戊辰羽州出兵ノ途、吾 公、京帥ニ朝参ス、保明等兵ヲ率テ兵庫ニ在リ。時ニ細雨中之ヲ写シ郷里ニ贈ル」とある。同じ写真館で同時期に撮影されたと考えられる他の武雄隊士の写真も残されている。

 武雄の第28代領主鍋島茂義の五男。源吉郎、十郎、兵部を称す。茂義の家督を継ぎ領主となった鍋島茂昌(しげはる)の同母弟で、佐賀藩士島市郎右衛門の娘知恵を母とする。保明、茂昌ともに維新期に活躍した島義勇とは従兄弟の関係。武雄の領主は、本来「後藤」を姓としたが、近世初頭、鍋島の藩体制に組み込まれ、1634(寛永11)年、21代領主後藤茂綱の時、初めて「鍋島」の姓を名乗った。以来、武雄では、領主の旧姓であるため、後藤を名乗ることは久しく禁止された。しかし、23代鍋島茂紀の子信貞が18世紀中頃、後藤を名乗ったことで復興。さらに、25代鍋島茂昭の子、忠敬が後藤(西後藤)を名乗り、茂義の子、保明もまた後藤(東後藤)を称した。
 『近世武雄史談』(武雄鍋島家資料)には、1856(安政3)年、後藤保明は茂義の命を帯び、小川源吾(のち平吉誠舒(ひらよしゆきのぶ)と改名)とともに肥後に遊学、儒学者木下犀潭(さいたん)唯一の門下生となり、また一方で熊本城下や熊本城を探索、さらには五家荘、人吉を経て鹿児島城下へ潜入するなど、勇敢で行動力のある人物として語られている。
 1868(慶応4)年に始まる戊辰戦争で、武雄は約1,000人の部隊を動員して羽州秋田方面の戦闘に加わったが、保明は、(小川源吾も小隊長として編入された)百数十人からなる先鋒隊の大隊長として、激烈な戦闘の最前線で指揮にあたった。1869(明治2)年の武雄領家臣の書出には、120石取りの家老として記載が見られる。
 1871(明治4)年、旧武雄領に、民政と軍事の分離を図るため暫定的に郡令部と軍団所が置かれ、保明は郡令部長に任命されたが、郡令部は翌年廃止、杵島郡郡役所へと移行した。また、1880年3月1日、武雄小学校内に設立された変則中学科(10月〜長崎県立武雄中学校。当時、現在の佐賀県の大半は長崎県に編入されていた)の、初代校長に就任するなど、生涯、武雄にあって郷土の発展につくした。

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