文政十(1827)年三月二十日杵島郡武内村梅野字海正原に生れ、本性は梅崎氏初の名は栄助幼名を鶴吉と称した。父は大智院の被官梅崎嘉戸右エ門と云ひ、出生前正月四日父を失ひ、慈母の手に養はれたが、間もなく隣村今山の於保助の養子に入り、爾来しんさんをなめ、或いは寺の小僧に、昼は労役し夜は研学し、或いは杵島郡小田村の薬商高倉元の世話で、佐賀市白山坊
翁は前後十六年間業成り郷里中野村に帰り、継父養母に接し孝養怠らず、養母初めて堵に案ずることが出来た。年二十三に妻を娶り、二十九才の時養母を失ふ。翁曾つて佐賀にあったとき、帰休一日といえども鍬鋤の労を惜しまなかったと云ふ。
翁は独立独行の
翁は時機を失ってはと、早速某家を高橋に購ひ修理を行って、
是れが寿堂薬肆の濫んちょう(
翁は創業多事の際軍団所中武雄学館、下目付役等を勤めること数年、其の間領主の命を受け、木下某に従び長崎に赴き。鉄砲器を購入した。時に世論紛々物議騒然京都に兵火の事があり、武雄領主に従ひ京都に赴き、留まること半才、又戊辰の役には糧食の任に当り奥羽の山野を馳駆して、能く其の職を全ふした。
明治維新後には、別当役船攻め所の職を勤め、明治九(1876)年地租改正が行はれ、翁は居村の改正事務に従ひ尽す所があった。
明治十三年九月名を英佐と改め。爾後専ら心を薬業に用ひ、販売の地域を拡め、家産を増殖し、年々田畑を買ひ、家屋を造り余裕があったが、勤倹節約厘毛も重んじ珠玉の如く、然しながら天災あり飢饉の時は之を
此処で家業を兄嘉四郎に譲り、専ら共同社の勤務に当り、明治二十五年銀行条例の公布によって、共同社の組織を改めて、甘久共同株式会社(旧武雄銀行)となり、翁はその監査役となる。同年三月兄嘉四郎病を得て数日にして他界した。翁は兄の死に会悲嘆に暮れ平素の元気も衰へ自ら余命も久しからずと、
明治二十八年五月慈母を携へて漫遊の途に上る。時に翁も古稀に近かった。発足に当って、後事を托して曰く、経済教育修築衛生耕耘隣保の修交風火の防禦懇々と書き遺したと云ふ。
家業は二男嘉次郎に譲り、翁は明治二十八年九月病に侵され遂ひに病勢加はり、施病看護の功なく翌二十九年五月五日没した。
出典:『杵島郡便覧』(昭和29年5月発行・編集兼発行者 小池春次)
旧漢字は、適宜、新漢字に置き換え、西暦年・読み仮名等を補足した。
※註:戊辰の役(戊辰戦争。武雄では羽州戦争とも称する)に際しての出征仕組の中に、兵糧方足軽として原栄助の名がある。