御船山

原英佐 (1827〜1896)

 文政十(1827)年三月二十日杵島郡武内村梅野字海正原に生れ、本性は梅崎氏初の名は栄助幼名を鶴吉と称した。父は大智院の被官梅崎嘉戸右エ門と云ひ、出生前正月四日父を失ひ、慈母の手に養はれたが、間もなく隣村今山の於保助の養子に入り、爾来しんさんをなめ、或いは寺の小僧に、昼は労役し夜は研学し、或いは杵島郡小田村の薬商高倉元の世話で、佐賀市白山坊薬肆(やくし)(薬店)、村岡大兵衛の店に入り、精励格勤主人に重用され名を栄助と改む。
 翁は前後十六年間業成り郷里中野村に帰り、継父養母に接し孝養怠らず、養母初めて堵に案ずることが出来た。年二十三に妻を娶り、二十九才の時養母を失ふ。翁曾つて佐賀にあったとき、帰休一日といえども鍬鋤の労を惜しまなかったと云ふ。
 翁は独立独行の(なげき)常に胸に溢れ一家を成すの意慾盛んにして、遂ひに原鴨右衛門の知行若干を求め、足軽格となり、姓を原と改め、姻戚にあたる醸造家山口熊太郎は彼に薬肆を高橋(現在店舗の所)に開くことを奨めて止まなかった。
 翁は時機を失ってはと、早速某家を高橋に購ひ修理を行って、蹶然(けつぜん)として薬肆を創始した。当時薬業制があって、新設開業が困難であったから、知友荒川久右衛門馬場千兵衛某のほう助を得て許可されて薬業を開くことが出来た。
 是れがせい寿堂薬肆の濫んちょう(濫觴(らんしょう)=物事の起こり)と云はれ、安政五(1858)年の春であった。偶々病疫遠近に発生し、麻疹最もしょうけつを極め店頭市をなし、顧客日を負ふて集り、業務頻繁にして数人の店員を使役するに至った。業務は他人に委すのは上策にあらずとして、自ら精勤し、佐賀を往復する途中自らも麻疹にかかり、一時危篤に陥入ったが、精神力で克服した。又店員にも麻疹にかかるもの続出して、次ぎ々々に離散する状況に至ったので、新たに古川嘉七其他を雇ひ、販路益々拡がり名声稍々(しょうしょう)起る。
 翁は創業多事の際軍団所中武雄学館、下目付役等を勤めること数年、其の間領主の命を受け、木下某に従び長崎に赴き。鉄砲器を購入した。時に世論紛々物議騒然京都に兵火の事があり、武雄領主に従ひ京都に赴き、留まること半才、又戊辰の役には糧食の任に当り奥羽の山野を馳駆して、能く其の職を全ふした。
 明治維新後には、別当役船攻め所の職を勤め、明治九(1876)年地租改正が行はれ、翁は居村の改正事務に従ひ尽す所があった。
 明治十三年九月名を英佐と改め。爾後専ら心を薬業に用ひ、販売の地域を拡め、家産を増殖し、年々田畑を買ひ、家屋を造り余裕があったが、勤倹節約厘毛も重んじ珠玉の如く、然しながら天災あり飢饉の時は之を救恤(きゅうじゅつ)し、又官舎校堂の造営、橋梁の架設、道路の改修ある毎に、資を献じてその費を助く、賞状木杯を受領すること数回、明治十九年有田稲富氏の資を合せて、共同社を創めその社員となる。
 此処で家業を兄嘉四郎に譲り、専ら共同社の勤務に当り、明治二十五年銀行条例の公布によって、共同社の組織を改めて、甘久共同株式会社(旧武雄銀行)となり、翁はその監査役となる。同年三月兄嘉四郎病を得て数日にして他界した。翁は兄の死に会悲嘆に暮れ平素の元気も衰へ自ら余命も久しからずと、(おもんぱか)り突然土木を武雄に起し、武雄は高橋を距ること、殆ど一里起工以来精を励まし、星を戴て出で、月を踏んで帰る。自ら職工を薫督越年して八戸を竣功した。
 明治二十八年五月慈母を携へて漫遊の途に上る。時に翁も古稀に近かった。発足に当って、後事を托して曰く、経済教育修築衛生耕耘隣保の修交風火の防禦懇々と書き遺したと云ふ。
 家業は二男嘉次郎に譲り、翁は明治二十八年九月病に侵され遂ひに病勢加はり、施病看護の功なく翌二十九年五月五日没した。

出典:『杵島郡便覧』(昭和29年5月発行・編集兼発行者 小池春次)
旧漢字は、適宜、新漢字に置き換え、西暦年・読み仮名等を補足した。

※註:戊辰の役(戊辰戦争。武雄では羽州戦争とも称する)に際しての出征仕組の中に、兵糧方足軽として原栄助の名がある。

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