御船山

樋口治実(ひぐちはるざね)(1851〜1930)


染付御紋透し花瓶


 含珠焼「染付御紋透し花瓶(そめつけごもんすかしかびん)(財団法人 鍋島報效会蔵)
 1996(明治25)年制作のもの。めでたい鶴亀文を、鶴は透かし、亀は染付であらわし、鍋島家の翹葉(ぎょうよう)紋を図案化して組み込んでいる。底銘に「棣華堂(治実)/伍平製」とある。

 陶芸家。樋口治孝(伍平)の子として杵島郡西川登村(現在、武雄市西川登町)小田志(こたじ)に生まれた。
 小田志地区は江戸時代初期から窯が開かれた地域で、周辺の弓野、庭木などと共に武雄南部唐津焼生産の中心として、皿、碗、徳利、すり鉢など、庶民の日用品が大量に生産されていた。また、幕末からは磁器の生産も始まり、明治時代には優れた技術に裏付けられた完成度の高い製品が多く作られた。
 1887(明治16)年、伍平、治実父子は、含珠焼(がんじゅやき)という精巧な蛍手(ほたるで)の技法を開発し、その翌年には特許を取得した。蛍手は、白い磁器の生地に花模様などを透かし彫りして、その上から釉薬で充填して焼き上げるものであるが、含珠焼は、一般の蛍手よりも彫り文様が大きく複雑で、その技法は、文様を彫り抜いた後で、「その空虚に大約水晶粉末七分と磁土三分とに水を加え適度に混和したるものを填充し、これを素焼窯中に入れ焼くと凡そ十時間にして火を止め冷却し、爾後に釉薬を施し本窯に入れ焼成する」というものであった。磁器があたかも宝石を含んでいるような印象を与えることから含珠焼の名称が生まれたと思われる。
 1893年、シカゴで開催された万国博覧会に樋口治実の含珠焼の作品「白磁珈琲具(含珠焼珈琲具六人揃)」(現在、東京国立博物館所蔵)が出品され、その美麗さが高く評価され受賞の栄誉に輝いた。その審査報告には「日本佐賀樋口治実ノ出品ニ係ル、純白透明ナル小形ノ陶器ニ、花鳥ノ模様ヲ写真セシ透明ノ態、意匠頗ル美且妙ナリ」と記されている。現在、小田志の山深くに「含珠焼発祥の地」の石碑が残されているが、含珠焼の残存数は少なく、今日では「幻の焼き物」と呼ばれるまでになった。

※参考 井上浩一氏「武雄の焼き物考」(平成17年 佐賀新聞 杵藤版連載記事)

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