御船山

鍋島英昌(なべしまひではる)(1864〜1927)


武雄鍋島邸の庭園


 武雄鍋島邸の庭園(現在の武雄市文化会館)
 江戸時代、武雄鍋島家の屋敷は、武雄のシンボル御船山の北麓にあった。1868(慶応4)年に、この屋敷が火災で焼失したため、別邸に移った。別邸跡は現在、武雄市文化会館となっているが、庭園は残されている。写真右手に武雄への蘭学導入に功績のあった鍋島茂義の像、左手には、多くの貴重かつ膨大な資料が保管されていた蔵が見える。

 武雄鍋島家第30代当主。父は武雄最後の領主茂昌、母は諫早豊前守茂洪の娘の福(のち郁)。幼名、英麿。幼児より儒学を学び、剣・柔・馬術を鍛錬、文武両道を修めた。明治維新で一万石以上の領主は華族に列せられたが、武雄はこれに満たず、家臣同様、士族に編入された。
 1882(明治15)年、男爵押小路師親の娘依子と結婚。その後、徴兵制度の変更に伴い、1885年から2年間、熊本鎮台歩兵連隊に一歩卒として入営した。退営後、1889年、宮内省出仕を命ぜられ式部官となり、奏任官六等従八位に叙せられ、翌年開設の帝国議会開院式で、明治天皇の扈従として御剣を捧持、玉座に侍した。1892年に依願免官、武雄に帰ったが、1894年からの日清戦争に際し再び召集され、陸軍軍曹として天皇下賜の軍旗護送という当時としては重要な任務を遂行、翌年には台湾方面に従軍、功により勲八等に叙せられ、瑞宝章と金30円を下賜された。
 1897年、父茂昌が華族に列し男爵を授けられると、英昌も従五位に除せられ、1925(大正14)年までに正四位に昇叙した。1927(昭和2)年2月7日、大正天皇の大葬儀にあたり、武雄でも大葬送の時刻の午後11時に武雄小学校校庭で遥拝式を挙行。身を刺すほどの寒さの中、子息綱麿とともに大礼服を着用して式に参列、玉串の奉呈直後にその場に卒倒。介抱の結果、その場は回復したが、4ヶ月後、邸内の稲荷神社参拝の途次、再び倒れ、ついに8月12日に永眠した。
 旧来、武雄領主の家では、領主の起臥する邸内を神聖視し、遺骸をとどめることを許さず、危篤の体で菩提寺に運び、死を迎えさせることを慣習とした。茂昌まではこの慣習に従ったが、この時は遺骸を本邸に3日安置した後、菩提寺円応寺で通夜と葬儀が行なわれた。法名、大濤院禅浄日居士。近隣から一万を超える人々が集まる未曾有の盛葬であったという。
 領主の子弟として華飾の幼児期を過ごしながらも、一歩卒として兵役に服し、また宮内官として天皇に近侍するも、再び軍曹として従軍するなど、まさしく時代の波濤に翻弄された一生であった。円応寺の西海良雲和尚が大濤院と法名をおくったのも故なきことではない。

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