御船山

神宮 良一(じんぐうりょういち)(1892〜1957)


神宮良一


 仁医 神宮良一

 神宮良一博士は、救癩に三十有余年を捧げ、その研究、診療はもちろん、療養所設置、患者の福祉など、わが国第一の先駆者であり、功労者である。
 博士は、宮野の開業医神宮良明の一人息子として、明治二十五年五月三十日に宮野において生まれた。
 唐津中学校卒業後、住吉小学校、武内小学校に教員として勤務していたが、父の医業を継ぐため、熊本医科専門学校に学び、大正七年三月同校を卒業した。
 大正七年卒業と同時に、関釜連絡船の船医となり、妻とみ子(大野出身)を伴って釜山に渡り、十年同地において婦人科医院を開業した。
 釜山の名士であり熱心なクリスチャンであった桧垣直紀と懇意になり、神宮夫妻もキリスト教の洗礼を受けるに至った。
 この桧垣氏の紹介で、熊本にあるライ療養所「回春院」の医務主任として勤務することになった。彼の救ライの仕事はこうして始まったのである。
 回春院というのは、イギリスの貴族出身で、キリスト教の伝導師ハンナ・リデル女史が、熊本で、悲惨な患者を路傍に放置しているのを見て、財産全部を売り払って建てた病院である。
 温厚であり、言葉少ない氏は、病理研究に熱心であり、クリスチャンとして精神的な面と、趣味として雅号まで持つホトトギス派俳人椅堂としての面から、患者の中にはいって、献身的な努力を続けた。
 大正十五年六月、回春院の院長となった。彼の研究と診療生活は、患者たちから慈父と敬われ、俳句を通じて師と仰がれ、テニスや野球をしては共と親しまれる院長先生であった。
 昭和七年六月、彼の研究は学会の注目するところとなり、「博士」の称号を贈られた。
 昭和八年十二月、国立療養所長島愛生園医官となり、同十三年四月国立邑久光明園園長となる。
 国立の園長ともなれば、特に重患の治療とか、一日一回の巡視に終わりがちなのに、彼の医療検診は、昔日と変わることなく、さらに進んで、三重、和歌山、兵庫県下をくまなく歩いて検診するなど、献身的な診療生活が続けられた。
 昭和三十一年七月、胃病を患い、岡山医大に入院して、切除手術をうけ、一ヶ月で退院したが、三十二年八月再度入院し、十日脳出血を併発して死亡した。ここに彼の神のような生涯は終わったのである。
 昭和四十四年、公立療養所創設六十周年記念式典が開催され、かつての療養所医官内田守氏が、神宮良一伝を刊行されるにあたり、医者、患者を問わず博士を知る人々は、おのおの、ありし日の博士をしのぶ文を寄せている。
 また、今日に至っても、辺境の地山内町大野の墓地に参拝する人が絶えぬという。

【注】この記事は「内田守著、仁医神宮良一博士小伝」によった。


※『山内町史 下』(昭和52年10月1日発行・編者:山内町史編さん委員会・発行者:山内町)より転載。

 索引へ戻る 

肥前全図


 歴史資料館TOPへ 

Copyright (C) Takeo City Library&Historical Museum