御船山

木々津又六 (1835〜没年未詳)


岩崎卯一像


 上野彦馬写真館で撮影のポートレート
  (写っている人物は未詳)
  (武雄鍋島家資料 武雄市蔵)

 江戸時代後期の武雄鍋島家家臣。日本の写真術の先駆者、長崎の上野彦馬のもとで写真術修業を行なった。日本では、魂が抜き取られる、運が弱るという理由で、明治になっても積極的に写真に写る人はあまりなかった。しかし、佐賀藩武雄領内での写真術研究は古く、領主鍋島茂義(1800〜62)はすでに1846(弘化3)年に写真機(当時は写真鏡と呼んだ)の取り寄せを命じているし、同年10月には「写真鏡一箱」が武雄にもたらされた。
 一般に、日本への写真機伝来は、1848(嘉永元)年に長崎出島に渡来したダゲレオタイプ(湿板写真機)を彦馬の父俊之丞がスケッチしたのが初めとされており、それ以前に武雄が「写真鏡」を導入した事実により、日本の写真史が書き替えられる可能性も高い。
 木々津又六が写真修業を行なったのは少し下って幕末の時代だが、彼が希少な薬品や印画紙の購入に腐心したことを示す書状なども残されているし、日本に唯一残る英国製の撮影用照明器具「ガルハ焼入器」の購入にも関わったと思われる。また、武雄の古写真中、彦馬の写真館で撮影のものが数点確認されるが、その中に坂本竜馬が肘をかけて写ったのと同じ黒い台で撮影された写真がある。最近確認されたパリ万博派遣の佐賀藩一行の写真も含め、わずかに5点しか残されていないもので、これが木々津又六によって撮影された可能性や、ここに写る粋な出で立ちの人物は誰かという問題も含めて興味は尽きない。なお、木々津又六は明治にいたり、武雄に写真館を開いたと伝える。

 索引へ戻る 

肥前全図


 歴史資料館TOPへ 

Copyright (C) Takeo City Library&Historical Museum