御船山

山口尚芳(やまぐちますか) (1839〜1894)


ステレオビュー


 サンフランシスコで撮影された岩倉使節団首脳
  左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通

 武雄の出身。範蔵とも名乗った。幼少から学問に優れ、15才の時、領主鍋島茂義の命で長崎に赴き蘭学を学び、さらに同地に設立された英語伝習所(済美館)でアメリカ人教師フルベッキのもと他藩の俊才と(しのぎ)を削った。帰郷後、佐賀本藩の翻訳兼練兵掛となるが、のち、上京して岩倉具視に接近、幕末の倒幕運動では薩長同盟の成立にも奔走したと伝える。
 明治政府では、外国事務局御用掛をはじめ要職を歴任、1871(明治4)年には外務少輔となり、木戸孝允・伊藤博文・大久保利通とともに岩倉使節団の全権副使を拝命した。岩倉具視を大使に据え、米・欧の国々を回覧する総勢100名余の使節団の中で、山口が幕末・維新期に活躍した木戸・伊藤・大久保と対等に肩を並べ得たのは、彼もまた一廉(ひとかど)の人物として、一目置かれる存在であったからに他ならない。
 1874(明治7)年の佐賀の乱で、山口の郷里武雄は佐賀からの強い要請に抗し切れず、士族団64名を出兵させる。一方、山口は騒擾鎮撫の命を帯び、警備兵を率いて佐賀に入城、鎮圧に努めた。乱勃発当初、武雄が領内の動揺を抑止し、出兵を拒否、態度を留保し続けた背景には、領主鍋島茂昌(しげはる)に対する山口の諌言があり、乱後、武雄が赦免された背景にも、山口の奔走があった。
 1875年、山口は元老院議員となり、1881年には初代の会計検査院長に就任。同時に元老院・参事院の議官も務め、1890年には、貴族院議員に勅撰された。日本史上、岩倉使節団の他の副使らほどに目立った活躍はなかったように見えるが、むしろ山口は、政治家としてではなく、実直な実務官僚としての道を歩み、近代日本の基盤整備に多大の貢献を果した。

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