御船山

松尾将行 (1845〜?)

 弘化元(1845)年七月十七日朝日村中野松尾将賢の長男に生れ、十五六才にして、久留米津田の門に、剣道を学ぶこと四年移って、佐賀中島道場に修行すること数年、技術抜群帰って、武雄藩剣道師範役を勤め明治初年奥羽に出征大いに破り、明治七年佐賀の乱には、捕縛大隊長として功をぬきんじ、明治八、九年頃長崎県警部を勤め、後に実業界に入り、信州より山繭を取り寄せ、飼育奨励をはかり、又崎戸炭坑の初期経営に当り、或は諸種の商業を営む等、各種事業に復事した。
 明治二十四年推されて、朝日村長となり、村治の難関に折衙し、村是の確立革新に努め、在職二年で止め、越へて二十八年四月村会議員に当選、此の要職に就くこと、実に三十有二年にして、大正六(1917)年四月職を退いた。
 此の間村治の発展産業教育の奨励に貢献したことは、枚挙にいとまがない。一村の円滑又実に翁の力にまつものが多い。而も理財に長じ、(つと)に金融機関の不備をなげき、同志と謀って、明治十五年甘久に金融機関を興し、爾来業務の隆盛を企図し、武雄銀行(現佐賀興業銀行武雄支店)を盛んにする基礎を作り、常に殖産興業国利民福をはかった。
 事に処しては常に孰慮果敢、公平無私、終始一貫意をとげ、崇高な人格は社会を感化し、其の徳は近郷にあまねくして、武雄鍋島家当主の補導役並顧問を仰付かったのもその一証佐である。

出典:『杵島郡便覧』(昭和29年5月発行・編集兼発行者 小池春次)
旧漢字は、適宜、新漢字に置き換え、西暦年を補足した。

※註1
 江戸時代の武雄領は藩ではなく、親類同格として大配分を受けた邑であった。
※註2
 『武雄史』(石井良一著)に拠れば、名は蔵人。「明治初年奥羽に出征」とは戊辰戦争(武雄では羽州戦争とも称する)のことで、この際の出征仕組には、側備足軽一隊組頭として松尾蔵人の名がある。
※註3
崎戸炭坑。現在の長崎県西海市にあった炭坑。1907(明治40)年から1968(昭和43)年まで営業した。

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