御船山

三根(みね)霞郷(かきょう)(1883〜1964)

 杵島郡橘村成(鳴)瀬(現、武雄市)に男6人、女1人の7人兄弟の二男として生まれた。本名は貞一。のち成村、ついで火郷、晩年に霞郷と号した。父は広大な土地を所有する庄屋の一人息子であったが、種々の事業に失敗、貞一が生まれた頃は破産同様の状況にあった。このため、士族格として峰姓を称していたのを譲り、平民となって三根と改姓していた。
 経済的に恵まれない環境で成長したが、多良尋常小学校卒業後、長崎の兄に引き取られ、ここで高等小学校・尋常中学校へ進み、1900(明治33)年上京した。幼少時から絵を得意とした彼が、周囲の励ましを受けて洋画家を志したためである。
 上京後、東京郵便電信局浅草支局に勤務、翌年5月に念願の画塾「不同舎」に入門した。ここは1896年、佐賀出身の久米桂一郎ら東京芸術学校に設置した西洋画科に至るステップとしての役割を持ち、活気を呈していた時代で、同門には青木繁や坂本繁二郎がいた。
 しかし、入塾3年目、それまで一家の支柱であった兄の死により帰郷を余儀なくされた。1905年頃、佐賀市与賀町に転居、家計を支えるため肖像画家となり、10年間に約450名の依頼に応じている。
 1908年秋、青木繁の訪問を受け、2人で泰西名画のカラー写真を売り歩きながら写生旅行を行うようになり、三根の画業への情熱が再燃。翌年春、シベリア経由のフランス留学に旅立つが、その途次、ウラジオストックに留まり肖像画や邦字の「西伯利亜新聞」の挿絵を描いて生計を立てた。
 2年後、母の危篤の報を受け帰国、悶々とした生活を続けたが、1912年、伊万里臨済禅寺円通寺の赤井大休老師のもとに参禅、寺内に一室を与えられ一年余修行に励んだ。参禅により心機一転、1915(大正3)年春、再び上京を志すが、途中の京都に寄り、終生この地に留まることになった。細々とした暮らしの中で実家へ送金するなど清貧な生活を送った。西洋画壇の大御所であった鹿子木猛郎らとも知遇を得、公募展への出品も勧められたが、三根は聞き入れなかったという。
 1946(昭和26)年、満63歳を迎えた3日後、嵯峨野滝口寺の閑静な侘住まいで、姪に看取られ息を引き取った。栄養失調による自然死のごとくであったという。

※佐賀県立博物館『三根霞郷』(1976)を参考にした。また、佐賀県立美術館学芸員野中耕介氏の御教示を得た。

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