御船山

二位景暢(にいかげのぶ)(1849〜1921)

 1895(明治28)年5月5日、武雄まで鉄道が開通、門司駅(現在の門司港駅)〜武雄駅間が鉄道によって結ばれた。さらにその3年後には、長崎駅(現在の浦上駅)までが開通、佐賀から武雄・早岐を経由し、諫早・長崎を結ぶ本来の長崎線が全通することとなった。これをうけて、1904(明治37)年2月、湯治客の集う武雄から鹿島の祐徳稲荷神社への集客を図る目的で祐徳馬車鉄道株式会社(のち祐徳軌道株式会社)が設立され、同年6月には、武雄出身の二位景暢が取締役に就任し開業に尽力した。
 二位景暢は、武雄町富岡の出身。戊辰戦争では小隊長として武雄兵を率いて秋田方面に出征。また、1874(明治7)年の佐賀の乱では、出征を促す佐賀勢に対して、武雄領主鍋島茂昌に加盟の非を説いて慰留に努め、江藤新平とも会見して同盟を謝絶したという。その後、小戸長、杵島郡長など歴任、海軍の軍港として鎮守府の置かれた佐世保から武雄〜佐賀を経て福岡に通ずる国道の改修工事に力を注ぎ、1890年から1901年までは衆議院議員も務めるなど、多くの業績を残した。
 なお、祐徳軌道は、1909年には石油発動車を導入、1914(大正3)年からは蒸気動力を併用したものの、1930(昭和5)年、建設中であった有明線の肥前山口〜肥前浜間が開業したことで、翌年、営業を廃止した。有明線は、その後、1934(昭和9)年、肥前山口〜長崎間が全通し、長崎本線と改称され、武雄を通る路線は佐世保線に編入されることになった。

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肥前全図


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