御船山

清水龍門(しみずりゅうもん)(1794〜1851)


武雄ガラス


 武雄ガラス (武雄鍋島家資料 武雄市蔵)

 武雄の儒学者。清水家の歴史は古く、江戸時代初めの1610(慶長15)年、京都から武雄に来住、武雄領主後藤茂綱に仕えたという医家、清水玄有の流れを汲む。玄有から4代目の時、清水家は二家に分かれるが、龍門はその分家である。当初は医師を志し、大春と号した。通称は駿平、住吉村大野(現、武雄市山内町大野)の出身であり、その居が黒髪山に近いことからその景勝に因み、龍門を名乗った。
 医学修学の中途で儒学へ転向し、筑前博多の儒者亀井南冥の門下となり、さらにその子昭陽に学んだ。1820(文政3)年、帰郷に際し、昭陽から「門人中、東に元凱(彦根の儒者青木元凱)、西に龍門あり」の送辞を受けた。武雄では家塾を開き子弟を教育、途中、平戸の松浦家からも招請を受けたが応じず、また、1822年には領主側室の横暴に憤り、これを弾劾したため東川登永野に謹慎を余儀なくされたが、後に許され、1835(天保6)年からは武雄の邑校身教館の教授に任ぜられた。1843年には、幼主鍋島茂昌に仕え、勤仕中の1852(嘉永5)年、57歳で卒した。
 龍門が、礼儀を重んじたことは有名で、領主の召致には必ず水浴し身を清め、また、父母の喪に服することも3年に及んだと伝える。また、龍門は、生涯にわたり膨大な日記を残しているが、そのうち、1835(天保6)年10月18日には、領主鍋島茂義から武雄で鋳造する大砲の銘文を考案するように命ぜられたこと、また、翌36(天保7)年11月1日には、武雄神社参詣の帰途、佐賀藩精煉方での研究の先駆となるびいどろ(ガラス)作りを見たことなどが記され、武雄の近代化の過程をじかに体験し、記録に残した人物として注目される。

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