御船山

広渡三舟(ひろわたりさんしゅう)(1841〜1931)


鶴図


 広渡三舟筆「鶴図」
  (有田家コレクション 武雄市蔵)
 「当年八十八 心海三舟筆」の署名があり、一般には心海三舟を雅号としていたことがわかる。

 武雄の絵師で広渡心海(良寛心海)の長男。名は文太郎。静嘯斉(せいしょうさい)の号も持つ。「三舟」の号は、武雄のシンボル御船山にちなむものであろう。
 広渡心海の項で詳述したが、武雄領の絵師としての広渡家は後継がなく、江戸時代中期、一度潰家となる。しかし、領主鍋島茂順(しげより)の時、家中より絵に長ずる加々良良寛を選び名跡を継がせたため、その子三舟は、広渡家の9代目に数えられる。三舟存命中の1926(大正15)年に記された石井良一著『武雄史』の一節には、父心海に狩野派の絵を師事、1853(嘉永6)年、長崎奉行から絵師の懇望があった際には、父が13歳(数え年)の三舟を推挙したとある。三舟は、長崎の武雄屋敷に一年余り滞在、この間、全国に配布された各種の植物を写生し、その技量の高さで人々を驚嘆させたという。
 武雄領主鍋島茂義は博物学的趣味を有し、国内ばかりか、西洋からも奇種の植物を取り寄せ、領内の植物園でこれを栽培した。「武雄鍋島家資料」中に、茂義自身の作と伝える『植物図絵』が残るが、三舟の描いた図譜も同様のものかと想像される。茂義は絵画を嗜み、小城藩主の鍋島直堯(なおたか)とも古画を交換し、賞翫(しょうがん)するなど親交を深めたため、その場に同席する機会の多かった三舟もまた技量をいっそう高めた。また、1858(安政5)年には、茂義の命で筆硯を携え諸国に修行の旅に出たという。山水花鳥を得意としたが、確認される作品の多くは晩年のもので、なかでも1928(昭和3)年、茂義の曾孫鍋島綱麿の依頼で描いた茂義の肖像画は、在りし日の茂義の姿を唯一伝えるものである。(広渡家系図へ)

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