御船山

樋口泉兵衛(1842〜1868)


秋田市新屋 天龍寺の樋口泉兵衛の墓碑他


 (左)秋田市新屋 天龍寺の樋口泉兵衛の墓碑
 (右)忠専寺の武雄兵士の墓碑
(手前から齋藤八左衛門大古場佐吉、御厨源三郎芳之)

 秋田県秋田市新屋(あらや)の天龍寺の山門をくぐるとすぐ左手に樋口泉兵衛の墓がある。墓石には正面に「樋口泉兵衛親要墓」とあり、側面に「肥前侍従(じじゅう)家老 鍋島上総(かずさ)内」と刻まれている。「肥前侍従家老 鍋島上総内」とは、佐賀藩家老の鍋島上総(茂昌(しげはる))の家来という意味で、樋口泉兵衛が武雄領主鍋島茂昌の家来であったことを意味する。樋口泉兵衛は、「慶応元年石席惣着到」(武雄鍋島家資料)によれば「定米十三石六斗」を支給される武雄鍋島家の侍格で下西山の円満寺の下に住し、戊辰戦争の折の「慶応四辰年六月 出勢仕組」(今泉家文書)には兵士100人を率いる大組頭武雄要人の先鋒隊の目附兼伍長であった。
 1868八(慶応4)年の戊辰戦争に際し、武雄領主鍋島茂昌は、武雄領から1,000人もの大軍を率いて秋田方面に出兵した(この戦争を佐賀では羽州戦争と呼ぶ)。5月、動員命令を受けた武雄の領主鍋島茂昌は、江戸城無血開城、上野戦争が終結した後も騒擾がいまだ収まらない関東への出陣命令を受け上京の途上、一旦京都の朝廷に参内、ここで作戦変更による秋田方面への出陣を告げられた。この頃、東北地方では、反明治新政府を掲げる奥羽越列藩同盟が結成され日々戦闘が激化、唯一、久保田藩(秋田藩)は新政府方に就いたため、周囲を敵に囲まれ、城下は火の海となる寸前であった。
 7月22日、2隻のイギリス商船に分乗し兵庫港を出港した武雄隊は、7月末、秋田に到着、長旅の疲れを癒す暇もなく、早くも8月1日には奥羽鎮撫総督から出撃命令が下った。8月5日(現在の暦で9月20日)、秋田県由利郡仁賀保町での庄内軍との戦闘・平沢の戦いは、不慣れな異郷の地でしかも猛烈な雨と寒さの中での戦闘となったため、武雄隊は無残な敗北を喫する。この戦闘の最中、武雄隊の樋口泉兵衛と玉薬箱持ちの田崎国五郎(山内町宮野出身)の両名が戦死、武雄隊初の犠牲者となった。『武雄史』によれば、樋口泉兵衛は大腿部に重傷を負い退却もできずその場に座り込んだまま敵を狙撃したが遂に落命、その首は敵によって晒されたという。天龍寺の墓石には「生歳二十七」と刻される。
 また、同じ新屋の忠専寺は、武雄隊の本陣が置かれた場所だが、裏手の墓所に「官軍墓」という標柱が立ち3基の墓石がある。「齋藤八左衛門」(年令不詳)、「大古場佐吉」(22歳)、「御厨源三郎芳之」(17歳)、これもいずれも武雄の兵士の墓である。羽州戦争での武雄隊の戦病死者は14名が確認されている。

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