御船山

鍋島茂昌(なべしましげはる)(1832〜1910)


錦の御旗


 錦の御旗 (武雄鍋島家資料 武雄市蔵)
 茂昌が出陣の途中、京都で朝廷から賜ったもの。当時、朝廷に十旒あったものの一つと思われる。

 佐賀藩への蘭学導入に努めた鍋島茂義の長男。第29代目の武雄領主。茂義の遺志を継いで、西洋科学の摂取を進め、特に軍備の増強を図った。武雄鍋島家資料中の1866〜68(慶応2〜4)年の『長崎御注文方控』は、茂義が残した『長崎方控』と同様、武雄の長崎での買い物帳で種々の器物・製品の注文がなされているが、世相を反映してか、大砲・小銃など武器の記述が多く見られる。
 慶応4(1868)年1月、旧幕府軍と新政府軍の間で戊辰戦争が勃発、佐賀藩は新政府軍として参戦した。同年五月、動員命令を受けた武雄の領主鍋島茂昌は出陣の途上、京都に立ち寄り、朝廷から「其方、武術抜群、且つ兵隊精練の趣、天聴に達し、先般御沙汰仰せ出され候處、此度上着、御満足に思し召され候」という褒詞の勅諚を受け、同時に激励のしるしに錦の御旗、天杯、軍扇、晒布などを拝領した。1,000余名からなる武雄隊は秋田へ出兵、旧幕府軍との戦闘にあたった。アームストロング砲など最新の軍備を擁する彼らの活躍は、敵・味方を問わず人々を驚愕させた。戦病死者14名を出したものの、この方面での戦闘は10月で終結、11月には部隊は武雄に戻った。茂義以来、武雄で実践を重ねた砲術の研究・調練は、戊辰戦争で結実、明治という新時代の扉をこじ開けるのに、鍋島茂昌をはじめとする武雄の人々の果たした役割は大きかった。鍋島茂昌は1897(明治30)年、男爵を授けられた。

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