御船山

鍋島茂義(なべしましげよし)(1800〜1862)


鍋島茂義肖像


 鍋島茂義肖像 広渡三舟筆
  (武雄鍋島家資料 武雄市蔵)

 江戸時代後期の武雄領主で、武雄の歴史を語るうえで、看過することができない人物。鎖国の時代、貿易港長崎との深い関係を利して、西洋の学問「蘭学」を武雄に、そして佐賀藩に導入した立て役者である。武雄鍋島家は、代々佐賀藩の執政(家老)を務める家柄、しかも茂義は、幕末の佐賀藩の名君とうたわれる鍋島直正の14歳年長で、また、直正の姉寵姫と結婚したため、藩政に対する発言力は強かった。
 1808年のイギリス軍艦フェートン号の長崎港侵入事件は佐賀藩に甚大な衝撃を与えたが、その後、茂義は、軍事力増強のため、西洋砲術の研究を進め、蘭学導入の先鞭を切った。大砲をはじめ、武雄市にのこる天球儀・地球儀、天体望遠鏡、蘭書など、膨大な数の蘭学関係資料の大部分は、茂義の時代に武雄が取り込んだものである。
 最近注目を集める武雄鍋島家資料「長崎方控」(武雄市蔵)は、1830年代から62年までの長崎における茂義の買い物の記録で、まさにありとあらゆる舶来品が持ち込まれていたことが確認できる。その解明が、幕末の武雄領と佐賀藩の関係はもとより、日本の近代化の過程で、ナゾとされてきた諸分野にも大きな光をあてるものとなる。武雄市では、国立科学博物館や京都大学等の研究者の協力でその解読を進め、平成31年3月、『武雄鍋島家資料 長崎方控・當用控』として刊行した。

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