御船山

松尾静磨(まつおしずま)(1903〜1972)

 1903(明治36)年2月17日、杵島郡若木村(現在の武雄市若木町)の旧家に4人兄弟の次男として生まれた。九州帝国大学工学部を卒業後、入社した会社では航空エンジンの設計を担当、生涯を空一筋にかける道を歩み始めた。その後、逓信省航空局に入り、日本の占領下にあった朝鮮や、大阪の飛行場長を歴任した。
 第二次世界大戦後、占領軍総司令部(GHQ)の航空禁止令により航空局は解散、飛行機は破棄・焼却され、軍用機は勿論、民間機も全ての活動が禁止され、航空事業は全面的に停滞した。まさに模型飛行機すらも飛ばすことができず、日本の空を飛ぶのは外国の飛行機だけという有様となった。この状況の中で、松尾は初代の逓信省航空保安部長、さらに初代の航空庁長官として、GHQと粘り強い交渉を重ね、ついに1951(昭和26)年1月、日本人の会社が航空事業を営むことの承認を勝ち得た。
 10月25日、日本航空マーチン202「もく星」号が東京から福岡に向けて飛び立った。日本の空に日の丸の翼が蘇った瞬間であった。後に当時GHQ参謀の米国空軍大佐アレンは、松尾を「絶望の中の勇者」と呼び、彼の忍耐強い不屈の人間性を尊敬を込めて賞賛した。
 松尾はその後、1961年、日本航空の社長に就任。ジェット機、さらにはジャンボ機の導入、国内路線・国際路線を開設、日の丸の翼を世界の空へと拡張、併せて安全性を最優先し、「臆病者と呼ばれる勇気を持て」と言う有名な言葉も残した。1971年、昭和天皇・香淳皇后の欧州七か国歴訪に際しては、日本航空会長の松尾は案内役として同行した。
 57歳の時、松尾は母校若木小学校の依頼で校歌を作詞した。校歌を締めくくる歌詞「祖先のこころうけついだ この空この地このからだ はえあるその名 若木のように 希望明るく手をとって つくるよい(さと)よい日本」には、日本の未来を託す子供たちに寄せる静磨の温かい期待があふれている。
 ちなみに、日本の航空史に燦然と輝く航空人松尾静磨が生まれた年は、奇しくもアメリカでライト兄弟が動力飛行機フライヤー一号で初飛行に成功した年でもあった。

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