御船山

高島秋帆(たかしましゅうはん)(1798〜1866)


モルチ—ル砲


 モルチ—ル砲 (武雄鍋島家資料 武雄市蔵)
 1935(昭和10)年、武雄鍋島邸(現在の武雄市文化会館)から出土した18門の大砲のひとつ。武雄鍋島家の銀杏の家紋が銀ではめ込まれている。1835(天保6)年、武雄に来た高島秋帆がもたらしたものと思われる。

 長崎の町年寄高島四郎兵衛茂紀の三男として生まれた。父が出島砲台の受け持ちを命ぜられ和式砲術荻野流の師範役となったことから、秋帆もまた父に学び師範役となった。しかし、秋帆はさらに火力の強い西洋砲術に着目、1823(文政6)年頃から出島商館長ステュルレルに学び、これを習得して第一人者となった。 武雄の領主鍋島茂義はこれにいち早く着目し、1832(天保3)年には、家臣平山醇左衛門を弟子入りさせ、さらに2年後には茂義自らも入門、1836年には高島流砲術の免許皆伝を得ている。
 その前年の1835年8月、秋帆は茂義の招きで武雄を訪問、5日ほど滞在した。この間の秋帆の行動は隠密的で細かには分からないが、ちょうど武雄での砲術演習が本格化する時期にあたり、また、平山が応対を務めていることから、調練の場所の下見や大砲鋳造場所の視察を目的としていたものと考えられる。
 1841年5月、秋帆は、武蔵国徳丸原(とくまるがはら)(現在、東京都板橋区)で西洋砲術の大規模演習を実施、幕府の西洋兵学採用の契機を作ったが、この演習には平山も武雄から参加した。この地は現在、高島平(たかしまだいら)と呼ばれ、高島秋帆の名が地名として残されており、それほど当時の人々に鮮烈な印象を与える大演習であったと言えよう。秋帆はこの後、讒訴(ざんそ)により江戸の牢に投獄されたため、武雄では秋帆との関わりによる詮議を恐れて、平山を処刑して恭順の姿勢を示した。また従来の高島流砲術の名を威遠流と改めるなどしたが、武雄や佐賀への砲術導入を語る上で、秋帆の影響を抜きにしては語れない。

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