御船山

竹林祐作(たけばやしゆうさく)(生没年不詳)


アームストロング砲(復元)


 アームストロング砲(復元) (武雄市蔵)
 武雄領主鍋島茂昌(しげはる)の時代に記された『慶応二年 長崎御注文方控』によれば、竹林祐作が後込めの最新鋭砲「アームストロング砲」の輸入に深く関わっていたことが確認できる。

 長崎の商人。石井良一著『武雄史』によれば、竹林祐作は長崎・東古川町の米屋小島重兵衛の二男で、もとは小嶋猪吉を名乗った。武雄領主鍋島茂義の買い物帳といえる『長崎方控』(武雄鍋島家資料)にも猪吉の名前はたびたび登場、武雄が注文したさまざまな西洋の文物の仲介、および実際の輸送も務めた。
 長崎には武雄の蔵屋敷が恵比須町に置かれていたが、1849(嘉永2)年頃(『武雄史』には1846(弘化3)年9月とある)、この武雄蔵屋敷の屋代(家代)を仰せつかった。さらに『武雄史』には、「五○(嘉永三)年の正月、猪吉は茂義の命により竹林祐作と名前を改めた」とある。『長崎方控』では1845(弘化2)年6月20日に「伊吉」、7月5日に「猪吉」が初めて登場、その後、年に数度、長崎と武雄の間で繁多な往き来が見られるが、1850(嘉永3)年2月3日、武雄への召喚が命じられたことが確認される後は、2月25日に「竹林祐作、(武雄へ)(まか)()す」、3月12日に「祐作(長崎へ)帰」とあり、「猪吉」の名前は姿を消し、代わって「竹林祐作」の名が頻繁に見られるようになる。月日の異同はあるものの、彼が長崎屋代となった時期も含め、『武雄史』の記述とほぼ一致している。
 1865(慶応元)年の『石席惣着到』(武雄鍋島家資料)にも「扶持 六石  長崎屋代 竹林祐作」とあり、彼が武雄の被官として武雄から扶持米六石、および「銀扶持」として銀二枚が支給されていたことも分かる。また、『明治三年惣着到』にも「長崎御屋代 竹林祐作」と記される。
 1850年前後以降、明治初頭まで、長崎から武雄への到来品の多くが竹林祐作の手によってもたらされた。牟田悌一著『近世武雄史談』(武雄鍋島家資料)には、竹林は貿易商と紹介され、当時「武雄の金はすべて竹林が持って行って仕舞う」とまで言われたとされる。彼が足繁く武雄に通った事実も含め、武雄や佐賀の近代化のうえで極めて関わりの深い人物である。

 索引へ戻る 

肥前全図


 歴史資料館TOPへ 

Copyright (C) Takeo City Library&Historical Museum