御船山

武雄要人(1844〜没年不詳)


羽州御陣中諸所絵図


 羽州(うしゅう)御陣中諸所絵図 (武雄鍋島家資料 武雄市蔵)
 戊辰戦争時、武雄が出兵した羽州方面の絵図。10枚ほどが残されており、武雄隊や佐賀本藩隊の配陣、大砲の配置なども記され、戦闘の作戦会議などに用いられたと推測される。図版は、現在の秋田県から山形県にかけての略地図で、鳥海山や月山などが描かれている。絵図左下の久保田が現在の秋田、新屋(あらや)は武雄隊が本陣を据えた場所。

 武雄では、旧来、武雄神社の神主家が分家したことがなかったため、神主家以外に武雄姓を名乗る家はなかった。しかし、後藤貴明の子息晴明との養子交換で武雄20代領主となった龍造寺隆信の子息後藤家信が、武雄に入城した際、その四男の頼続へ初めて武雄姓を与えた。これが武雄領内での武雄姓の始まりで、本小路(もとこうじ)(現在、武雄町武雄の内)に屋敷を構え、以来、明治維新まで領主の御親類として武雄の家中では重要な位置を占めた。
 さらに、21代領主茂綱は、三男茂明、五男綱吉、七男英経、八男吉親の4人に武雄姓を許したが、三男と五男の家は佐賀藩士となり、八男家は跡絶えたため、七男家のみが同様に明治初年まで御親類として重用され、西田小路(現在、武雄町武雄の内)に住した。また、家信の四男に始まる武雄家の6代頼貞の二男頼永にも武雄姓が与えられている。
 武雄要人は、頼続に始まる武雄家の流れを汲む家柄で頼均(よりただヵ)とも名乗った。父は、左門を名乗った頼之で、1849(嘉永2)年頃成立の『武雄領着到』(武雄鍋島家資料)には、物成150石の大組頭と記載があり、若い頃から家老職として領内の政治にかかわり財政の改革にも資するところ大であったと推測されるが、1861(文久元)年、43歳の時、従兄弟の江島某の凶刃に倒れている。
 武雄要人は、慶応元年の『石席惣着到』(同)に「物成百石」と記載される。1864(元治元)年、20歳の時には、第一次長州出兵に武雄から出動した二大隊の内、一方の大隊長を務めた。また、4年後の戊辰戦争に際して、武雄領主鍋島茂昌は領内の兵士を集め、要人の屋敷で軍令を布告、武雄領から1,000人もの大軍を率いて秋田方面に出兵した。この時も要人は、兵士100人を率いる先鋒隊の大隊長として出動、戦闘の指揮にあたったが、8月5日の平沢(秋田県由利郡仁賀保町)での庄内軍との戦いは、不慣れな異郷の地で、しかも猛烈な風雨と寒さの中での戦闘であったため、武雄隊は戦死傷者を出すほどの無残な敗北を喫した。要人自身も病に倒れ、のちには足にも故障をきたし無念の戦列を離脱となった。帰郷後、戦功により加増、1869(明治2)年八月の『上総家来知行切米其外身格附』(同)には、「物成百五十石」として「武雄要人」の名が見える。

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