御船山

辰野金吾(たつの きんご)(1854〜1919)


如蘭塾エントランス


工学博士辰野金吾 工学博士葛西萬司 計画之印

 武雄温泉楼門設計図
   (武雄温泉株式会社所蔵)
 現存する6枚の設計図のうちの1枚。6枚中5枚に「工学博士辰野金吾 工学博士葛西萬司 計画之印」(拡大写真、左)が押されている。
 当初の計画では、3棟の楼門が建てられることになっていたが、敷地等の問題から1棟のみの建設となった。

 辰野金吾は1854(嘉永7)年8月22日、唐津藩の下級武士・姫松家の次男に生まれた。1868(明治元)年父の実弟の辰野家の養子となる。1870年、藩の英語学校に入学。教師は高橋是清で、1872年に高橋が帰京すると辰野も東京へ出た。
 1873年、工部省工学寮へ入学。1877年、工学寮は工部大学校と改称し、25歳のジョサイア・コンドルが教授として着任すると、構造や材料学中心の講義にデザインなどが加えられ、芸術教育へと転換した。辰野は1879年11月、工部大学校造家学科を首席で卒業。首席卒業者は官費留学が約束されており、翌年2月8日には辰野を含む各科の首席卒業生10名が、横浜から出航した。
 ロンドンでは、ロンドン大学の建築過程および美術過程で学ぶ傍ら、キューピッド建築会社に5ヶ月、ついで建築家ウイリアム・バージェスの事務所の研修生として建築の実務を学ぶ。1882年にはロンドンを発ち、フランス、イタリアをまわって1883年に帰国した。
 帰国後の辰野は、建築設計と教育の両面で華々しい活躍をみせる。1884年12月にジョサイア・コンドルの後任として工部大学校教授に就任、1886年には銀座に辰野建築事務所を開設。1888年に日本銀行本店の設計者に決定し、調査のため2度目の外遊をしている。
 1902年末、工科大学教授を辞任すると、翌年には盛岡市出身の葛西萬司(1863〜1942)と共同で、辰野葛西事務所を東京に開設。1905年には大阪に辰野片岡事務所を置き、日銀の各支店をはじめ全国規模で建築設計の仕事を展開した。1903年、東京駅中央停車場の設計を依頼され、1914(大正3)年竣工。さらに国会議事堂のコンペの第一次審査にもかかわったが、1919年3月25日、赤坂新坂町の自宅で息をひきとった。
 「肥前国風土記」にも出てくる古湯、武雄温泉のシンボルである武雄温泉新館及び楼門は、辰野葛西事務所の設計である。清水満之助(現清水建設)が施工し、新館は1914年8月6日、楼門は同年11月20日に上棟、1915年4月12日に落成式が挙行された。いずれの建物にも、伝統的な和風意匠を基調としながら、細部の意匠や架構等に新しい試みがみられる。当時の建築界をリードしていた辰野金吾が関与した数少ない和風建築として貴重であり、わが国の近代保養施設の歴史を知る上でも重要な建物であることから、2005(平成17)年、重要文化財に指定された。

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