御船山

(なべしまちょうこ) (1811〜1829)


菊・牡丹


 ちょう子作
  (武雄鍋島家資料 武雄市蔵)
 茂義の指示通りの表装で現在も残されている

 佐賀藩第9代藩主鍋島斉直の娘で、10代直正(閑叟)の異母姉。一般には「寵」を名乗った。1827(文政10)年2月、武雄の領主鍋島茂義と結婚。茂義は、婚礼以前に、ちょう子が和歌に秀でていることを聞き、自らも和歌に励んだという。ちょう子もまた、茂義が得手とした絵画に興味を抱き、菊・牡丹の対幅など、「ちょう子」の署名のある絵画を残した。しかし、結婚からわずか1年9ヵ月後、ちょう子は、産後の肥立ちが悪く、嬰児とともに18歳の短い生涯を閉じた。
 茂義は、のちに白石鍋島家から後室を迎えるが、和歌を好んだちょう子のため、十七回忌、三十三回忌にも追慕の和歌を詠んだ。また1850(嘉永3)年には、菊・牡丹の絵の表装仕替えを細かく指示しているが、2年前に再び先立たれた後室への気遣いからか、「ちょう子 菊 牡丹」と書いた部分の「ちょう子」を墨で消している。茂義にとって、若くして他界したちょう子は生涯忘れ得ぬ伴侶であったのだろう。
 鍋島直正の14歳年長であった茂義は、まだ幼い直正の所望で絵を描いて差し出すなど、直正とは兄第分の間柄であったが、ちょう子との結婚により成立した義兄弟の関係は、茂義の、藩主直正に対する発言力・影響力をいっそう増大させることにつながった。いわば、ちょう子も、武雄と佐賀本藩を強固に結ぶ絆であり、その命は短かかったものの幕末佐賀藩の近代化に向けて重要役割を演じたといえる。
 彼女の亡骸は武雄鍋島家の菩提寺である円応寺に葬られ、茂義の墓の側で静かな眠りについている。

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