高田保馬歌碑 (川古の大楠公園内)
川古のクス(上)と「日盛りの 川古の里の大楠の 木かげに母と またいこはめや」の歌が刻まれた高田保馬の歌碑。1982(昭和57)年、地元有志によって建立された。
高田保馬は1883(明治16)年、小城郡三日月村、現在の三日月町遠江に父清人、母クスの子として生まれた。母クスは、天然記念物『川古のクス』(武雄市若木町)の若宮神社に奉仕する神職の家の出であった。
1897年佐賀中学を卒業。同年第五高等学校を経て、1910年京都帝国大学を卒業。1914年京大講師を務めた後、広島高師教授、東京商科大(現一橋大)教授、九州大学教授。京都大学兼任のあと1938(昭和13)年京大経済学部長。1956年、阪大経済学部長、大阪府立大経済学部長を歴任し、1964年文化功労者と成った。わが国に近代経済学を導入するとともに、精力的な研究と著作活動を行い、また阪大経済学部を設立して多くの子弟を育てた。著書は『経済自立論』『社会学原理』『勢力論』など数多く、独創的でその知性は学界の第一人者として世界にその名を知られる。
保馬の著作の中には、歌集も3冊含まれている。中学の1年後輩に下村湖人がおり、彼との文学交友から本格的に詩人・歌人としての道に入るようになったとされる。1920(明治43)年の秋には与謝野鉄幹・晶子主宰の新詩社へ入社。しかし、翌年には与謝野夫妻がヨーロッパへ発ったため指導を受けることが出来なくなった。1925(大正14)年、病を得て療養のため帰郷した際、佐賀市川久保の中島哀浪(1883〜1966)を訪問し、大いに影響を受けた。中島は高田の中学校の同級生で、この頃から短歌を文芸雑誌に投稿していた。当時は、北原白秋、若山牧水と共に九州の三大歌人とも謳われた歌人であった。
1963(昭和38)年には、宮中御詠歌会に、阿蘇の雄大な秋の風景を詠んだ『白々と 末はみそらの空に入る 波野の原の ほすすきのむれ』の歌で召人として招かれた。彼の歌集は、いずれも郷里を中心にした記録であり、母の故郷を読んだ歌も複数残している。また、県下の学校の校歌の作詞も多く手がけており、若木中学校(現在の武雄北中学校)、武雄小学校の校歌も高田保馬の作詞である。
若木中学校校歌(「若木百年史」より転載)
1、古語る大楠の 緑は常に新たなる
里はわが里町しらず 八幡下しふき通る
2、山のさきわい野のめぐみ 普き中を行く川の
朝夕に休みなく 学びて競う楽しさよ
3、ああ父母の里なれば みなはらからの国なれば
築きおこさんもろともに 力の限り身の限り
4、世の荒波は高くとも 世界のあらし強くとも
はげみきたえて胸をはれ 苦難ぞ人を玉とする
武雄小学校校歌
1、南みふねの山近く
武陵の里に生いたちて
ともにし学ぶ学びやの
歴史はすでにいくとせぞ
2、伝えて長きおんおしえ
生命の限り身につけて
人間の道ひたすらに
強く正しくふみゆかん