平成20年度 武雄市図書館・歴史資料館企画展

フェートン号事件と武雄


 江戸時代の鎖国体制下、佐賀藩は海外に開かれた唯一の貿易港、長崎の警備と言う重要な役割を負っており、武雄もその一端を担っていました。
 長崎警備が始まって160年以上を経た文化五年(1808)、イギリスの軍艦フェートン号が突如長崎港に侵入、乱暴を働く重大事件が発生しました。この時、警備の怠慢から厳罰を受けた佐賀藩では、やがて長崎警備の充実を図る目的で、西洋砲術の研究や西洋式の軍隊の調練などを導入します。その先頭に立ち、洋学の移入に務めたのが武雄でした。
 武雄の歴史に大きな影響を及ぼしたフェートン号事件から200年の今年、武雄市図書館・歴史資料館では、所蔵する多くの関係資料に加え、県内に所蔵される貴重な資料を展示し、新時代の幕開けに武雄が果たした功績を明らかにします。

場所:企画展示室(観覧無料)
期日:平成20年3月29日(土)〜5月5日(月)


【展示構成】
1.長崎警備のはじまり
2.フェートン号事件おこる
3.武雄の領主鍋島茂義
4.武雄砲術の展開
5.警備体制の充実
6.茂義、蒸気船製造主任になる


展示物の一部を下に紹介します。 展示品一覧は こちら 

環海異聞
   
 

『環海異聞』

武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 寛政5年(1793)、仙台の水夫16人が航海中にロシア領アリューシャン列島に漂着。彼らは12年間にわたりロシアに滞在、皇帝アレクサンドルー一世にも謁見した。文化元年(1804)、彼らのうちの4人は、通商を求め長崎に来航したロシア使節レザノフの船で帰国を果たした。蘭学者の大槻玄沢が、彼らの体験等を聞き取り、詳細に筆録したのが、この『環海異聞』である。

 
   

   
 

『長崎版画 本国阿蘭陀人之図』

武雄市蔵

 天保15年(1844)、オランダ国王の親書を携えたペレンバン号が長崎に来航した頃につくられた版画。図に見える大砲は小ぶりに描かれているが、当時世界を震撼させた最新のペキサンス砲と思われ、武雄鍋島資料中にも、佐賀藩主鍋島直正に提出された実物大(約3m)の型紙が残されている。

 
   
長崎版画 本国阿蘭陀人之図

望遠鏡
   
 

『望遠鏡』

武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 ケース付き監視用の屈折望遠鏡。武雄での砲術訓練、または実戦において、目標および着弾点の距離の測定に使われたと思われる。ピントを合わせることで目標物までの距離が計測できる仕組みに作られている。

 
   

神之島図
   
 
 

『神之島図』

 武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 長崎の神之島の絵図。長崎湾口の島々は佐賀藩領であったため、佐賀藩は長崎警備の当番年・非番年にかかわらず、独自で防衛体制を維持していかなければならなかった。1850年代には、佐賀藩独自で、伊王島・神之島に台場(砲台)を築造した。この絵図では、築造前の図の上に別紙で、築造後の図を被せてある。

 
 

蒸気機関の図
   
 
 

『蒸気機関の図』

 武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 安政元(1854)年、佐賀藩は蒸気船建造に着手、責任者に鍋島茂義を任命した。軍隊や兵器を、大量且つ迅速に輸送する手段としての蒸気船は、当時、最も研究・開発が急がれる新鋭機種であった。
 本図は、安政元年、幕府が輸入した蒸気艇の汽罐図。この艇は、幕府が嘉永6年(1853)に発注した蒸気船雛形(模型)として引き渡されたため、実船であるにもかかわらず蒸気船雛形と呼ばれた。佐賀藩は、日本で最初の輸入蒸気船であるこの艇を長崎奉行から借り受け、深堀で船手に運用の練習を積ませた。武雄には側面図も残る。

 
 


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