平成22年度 武雄市図書館・歴史資料館企画展 没後100年 最後の武雄領主 鍋島茂昌 武雄の第29代領主 |
場所:企画展示室・メディアホール(観覧無料) |
展示物の一部を下に紹介します。関連年表は こちら
1.家督の相続と長崎警備 武雄の最後の領主である鍋島茂昌は、幼名、元次郎。通称、上総を名乗った。天保8(1839)年に父茂義から家督を相続。安政6(1859)年、慶応2(1866)年には佐賀藩の執政に就任した。
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2.洋学の受容と軍備の増強 茂昌が生まれた頃から、彼の父茂義は、西洋砲術の積極的な導入に努めていた。茂昌もまた、西洋科学の摂取を進め、特に軍備の増強を図った。慶応2〜4年の『長崎御注文方控』は、武雄が長崎で手配した買い物の控えで、種々の器物が注文されていたさまが見て取れる。
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4.苦渋の選択 佐賀戦争と武雄 明治6(1873)年の征韓論で江藤新平が下野すると、佐賀では江藤新平に通じる征韓党と島義勇に通じる憂国党がむすびついて、翌年2月15日に佐賀戦争が勃発。茂昌と島義勇が従兄弟の間柄であったことなどから、茂昌に対して、佐賀軍への元帥就任、並びに出兵要請がなされた。明治政府で重要な地位を占めていた武雄出身の山口尚芳の諌めもあって、慎重な姿勢をとっていた武雄も、ついには64名の兵士を佐賀へ向けて進発させた。この時期、茂昌は非常に微妙な立場に立たされていたのである。
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5.男爵 武雄茂昌の誕生 茂昌は執政職にあった明治元(1868)年暮れ、藩政改革の議論が沸騰する中、憤然として辞表を提出、武雄に退いたとされる。その後、新政府への任官を促されたが、いずれも辞退。武雄に閑居し悠々自適の日々を過ごしたという。
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