平成22年度 武雄市図書館・歴史資料館企画展

没後100年 最後の武雄領主

鍋島茂昌

 武雄の第29代領主鍋島茂昌(なべしましげはる)は、西洋の学問「蘭学」導入の立役者である鍋島茂義の子として生まれ、満6歳で武雄鍋島家の家督を継ぎました。
 茂昌の代にも、西洋の学問・技術の習得は続けられ、明治という新時代への変革期に起こった戊辰戦争では、「多年、西洋砲術研究・練兵の趣、聞こし召され候に付」という朝廷からの出陣命令を受け、秋田方面での戦闘に向かいました。武雄が卓越した洋式軍事力を備えており、またそれが大きく評価されていたことの証となる出来事です。
茂昌肖像  また、明治7(1874)年の佐賀戦争では、米欧回覧から帰国したばかりの武雄出身の山口尚芳の諌めもあり、武雄からの出兵には消極的でしたが、佐賀軍の中心である島義勇の強い要請に抗しきれず、ついに64名の兵士を佐賀に向け進発させることになりました。島義勇と従兄弟の間柄であった茂昌にとっては苦渋の時であったと考えられます。その後、明治30(1897)年に華族に列し男爵を授けられ、同43(1910)年に、77年間の生涯を閉じました。
 鍋島茂昌が没して100年の今年、武雄市図書館・歴史資料館では「最後の武雄領主 鍋島茂昌」の展覧会を開催します。
 

場所:企画展示室・メディアホール(観覧無料)
期日:平成22年7月17日(土)〜8月29日(日)
 
担当学芸員のギャリートーク:いずれも13:30〜
7月25日(日)・8月7日(土)・15日(日)・21(土)

 

展示物の一部を下に紹介します。関連年表は こちら 
 
 

  1.家督の相続と長崎警備

 武雄の最後の領主である鍋島茂昌は、幼名、元次郎。通称、上総を名乗った。天保8(1839)年に父茂義から家督を相続。安政6(1859)年、慶応2(1866)年には佐賀藩の執政に就任した。
 佐賀藩は、幕府の鎖国政策の下、長崎の警備を命じられていたが、茂昌は嘉永5(1852)年、長崎御仕組方頭人(長崎警備主任)に任じられ、翌年のロシア使節プチャーチンの来航、また、その他外国船の長崎来航に際して、長崎警備のため長崎に赴いた。

 
版画 蘭船図
   
 

版画 蘭船図

武雄市蔵

 長崎版画と呼ばれる木版画で、オランダ帆船と蒸気船が描かれている。左上には「異邦エ里数」としてヲロシア(ロシア)まで一万四千里、ヲランタ(オランダ)まで一万三千里と距離が書き込まれている。帆船には大砲を出す砲門が見え、作業をする人や楽器を演奏する人などが克明に描かれている。長崎では、出島を訪れる外国船を題材にした作品が、土産品として多く売られていた。

 
   
 
 

  2.洋学の受容と軍備の増強

 茂昌が生まれた頃から、彼の父茂義は、西洋砲術の積極的な導入に努めていた。茂昌もまた、西洋科学の摂取を進め、特に軍備の増強を図った。慶応2〜4年の『長崎御注文方控』は、武雄が長崎で手配した買い物の控えで、種々の器物が注文されていたさまが見て取れる。

 
プレットモーレンの図
   
 
 

プレットモーレンの図

江戸時代後期
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

  黒色火薬を調合するのに使用した、「磨薬車」もしくは「圧磨機」の図。武雄に残る「プレットモーレンの図」は「黒色火薬圧磨機二台の立面図」と題されており、水車動力を左右に振り分けた構造。幕末に、大量の黒色火薬を製造するために導入されたもので、武雄市武内町柿田代には、プレットモーレンを設置したという水車場遺構が残っている。

 
 
 
 

  3.秋田へ出兵 羽州戦争と武雄

 慶応4(1868)年1月、旧幕府軍と新政府軍の間で戊辰戦争が勃発。武雄も、長年重ねた西洋軍備の研究・調練が認められて朝廷から動員を受け、5月に出兵。京都に立ち寄った後、秋田方面の戦闘に参加した。スペンサー銃・アームストロング砲など最新兵器を要する武雄軍団の働きは、敵・味方を問わず人々を驚愕させた。

 
   
 

茂昌公関東御出張被蒙朝命候御書付写

慶応4(1868)年5月
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 肥前前中将(佐賀藩の前藩主鍋島直正)に対して、新政府が出した沙汰書。「其方家老鍋島上総 多年西洋砲術研究練兵之趣 聞こし召され候に付 此節速ニ関東出張 大総督宮に随従 進退指揮を請け 勉励候様 取り計らうべき旨 御沙汰候事の指揮を受くべし」とあり、武雄の長年の西洋砲術研究が高く評価されていたことがわかる。

 
   
茂昌公関東御出張被蒙朝命候御書付写
 
 

  4.苦渋の選択 佐賀戦争と武雄

 明治6(1873)年の征韓論で江藤新平が下野すると、佐賀では江藤新平に通じる征韓党と島義勇に通じる憂国党がむすびついて、翌年2月15日に佐賀戦争が勃発。茂昌と島義勇が従兄弟の間柄であったことなどから、茂昌に対して、佐賀軍への元帥就任、並びに出兵要請がなされた。明治政府で重要な地位を占めていた武雄出身の山口尚芳の諌めもあって、慎重な姿勢をとっていた武雄も、ついには64名の兵士を佐賀へ向けて進発させた。この時期、茂昌は非常に微妙な立場に立たされていたのである。

 
書簡(島義勇から鍋島上総宛て)
   
 
 

島義勇より鍋島茂義への救援依頼書

明治7(1874)年
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 明治7年2月26日付けの書簡。戦域が拡大して防備が困難となり、征韓党の江藤新平らが脱走したため、島義勇は方策が尽き、茂昌に援軍を依頼している。

 
 
 
 

  5.男爵 武雄茂昌の誕生

 茂昌は執政職にあった明治元(1868)年暮れ、藩政改革の議論が沸騰する中、憤然として辞表を提出、武雄に退いたとされる。その後、新政府への任官を促されたが、いずれも辞退。武雄に閑居し悠々自適の日々を過ごしたという。
 明治30(1897)年、華族に列せられ男爵を授けられた。64歳になっていた茂昌は、拝受式に当たり初めて洋服を着して参内、約30年ぶりに明治天皇への拝謁を遂げた。

 
大礼服
   
 

大礼服

明治30(1897)年
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 鍋島茂昌着用の有爵者大礼服。衿章・袖章・帽子右側章の地色の萌黄色は、男爵位を示す。
 『武雄史』(石井良一著)には「明治三十年勲功に依り華族に列し男爵を授けらるゝや齢既に六十六、宮内鳳凰の間が床滑かにして往々転倒するものあるを以て、万一の失態あらんことを虜り甞て式部官たりし令息英昌を代理として拝受せしめてはと懇請したが、茂昌は明治の初年陛下御幼少の時、天顔を拝したるのみなるを以て一世の光栄として今一度竜顔を拝したしと之れを退け、自から参内し初めて洋服を着用し初めて靴を穿ちたるに拘はらず悠々迫らず御前に進み之れを拝授した。其の態度進退度に叶い実に見事であつたと云う。これは能楽の仕舞から慣れられたものであるとの評判であつた。」とあり、このときに撮影されたと思われる肖像写真も残されている。

 
   
 

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