平成22年度 武雄市図書館・歴史資料館ミニ企画展

ミミズク

武雄と種痘

 疱瘡(天然痘)は、江戸時代、特に恐れられた伝染病の一つです。疱瘡への免疫をつけさせるための種痘は、18世紀中頃に日本に伝えられました。しかし当時の人痘種痘法は安全性に問題がありました。
 1796年、西洋で安全な牛痘種痘法が発見され、日本では佐賀藩が嘉永2年(1849)にこれを試みた事から全国に広まりました。
 武雄では天保8年(1837)、領主鍋島茂義のお抱え医師中村凉庵が茂義の子茂昌らに牛痘を接種したことが、牟田悌一の『浄天公附近古武雄史談』に記載されています。それが真実ならば佐賀藩より10年余り早く、日本初といえます。今回は、凉庵が行ったと伝えられる牛痘種痘に焦点を当てた展示を行います。
 下に、展示品の一部をご紹介します。
 

場所:蘭学館ミニ展示コーナー(観覧無料)
期日:平成22年5月21日(金)〜平成22年8月18日(水)

 
疱瘡絵(鯛車)
   
 

疱瘡絵(鯛車)

歌川芳虎画 幕末〜明治初期
武雄市蔵

 疱瘡は疱瘡神の仕業とされ、赤色呪力で追い払おうとする風習があった。鯛車は祝い物等にも用いられた玩具で、鯛も赤いことから疱瘡除けのお守りとされた。上部に「お目出鯛ことのみ家に三ツ道具そろうていつもあそぶおさな子」とある。

 
   
 
   
 

蘭書「種痘の価値又はその持続についての新しい説」

オンタイト著 1828年
武雄鍋島家資料

 イギリスの医学者エドワード・ジェンナー(1749〜1823)が、1828年に新研究論文として発表したもの。ジェンナーは1778年に天然痘予防に牛痘が有効ではないかと考え研究を始めた。1796年にようやく牛痘種痘を成功させた彼は、その2年後に研究論文を発表。牛痘は天然痘ワクチンとしてヨーロッパだけでなく世界中に普及することになった。

 
   
蘭書「種痘の価値又はその持続についての新しい説」
 
浄天公附近古武雄史談
   
 

浄天公附近古武雄史談

牟田悌一著 昭和初期
武雄鍋島家資料

 淨天とは鍋島茂義のこと。茂義を中心に、いち早く近代化に取り組んだ江戸時代後期の武雄の様子が、武雄鍋島家の家臣であり戊辰戦争に出征した寿一郎からの聞き書きが主となってまとめられている。筆者である牟田悌一は、牟田寿一郎二男。
 中村凉庵は、武雄鍋島家の家臣で、武雄の資料中には群治(郡治)の名でもしばしば登場、最近の調査で、武雄と長崎間を頻繁に往来しながら蘭学関係の書籍・物品の導入にも奔走する姿が見られ、武雄や佐賀における最新の科学技術導入にも大きく貢献している様子が伺える。

 
   
 
   
 

長崎方控

天保9年(1838)〜文久2年(1862)
武雄鍋島家資料

 鍋島茂義とその側近らが、長崎で注文・購入・修理した物品などを記録したもの。全5冊のうち2巻から5巻までの4冊が残っている。この中に、嘉永2年(1849)9月2日朝に中村凉庵が、彼の娘と知り合いの子両名に蘭医直伝の牛痘種痘を施し武雄に連れ帰ったことが記載されている。

 
   
長崎方控
 
種痘法則(写本)
   
 

種痘法則(写本)

嘉永2年(1849)
武雄市蔵

 嘉永2年(1849)、広瀬元恭の記した『種痘法則』の写本。牛痘種痘の歴史とその接種方法が図解入りで記されている。また、付属の別紙「牛痘しらせ書の事」は、同じく「牛痘」が日本で施されるようになった経緯とともに「一昨年モンニッキといへる医者もちきたり、ながさきにて百人ほとうえしより、肥前公御用ひありて夫より日本へひろまりしなり」と、佐賀の種痘が、全国への普及につながったことについても触れている。

 
   
 
   
 

種痘用具(複製)

原資料:個人蔵

 牛痘種痘に用いる道具。ガラスなどの容器に牛痘苗を入れて保管、持ち運び、種痘時にはガラス板の上に牛痘苗を出し、種痘メスで腕などを切り、牛痘苗を植え付けた。

 
   
種痘用具(複製)

 
 参考:種痘の種類    参考:中村凉庵   
 

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