平成23年度 武雄市図書館・歴史資料館特別企画展

武雄の時代

〜西洋砲術導入の軌跡〜

 佐賀藩の洋学研究は、武雄の西洋砲術研究から展開しました。武雄領主鍋島茂義は、1832(天保3)年、当時、西洋砲術の第一人者であった長崎の高島秋帆のもとに家臣の平山山平(醇左衛門)を入門させます。さらに2年後には茂義自身も入門して砲術と大砲鋳造の基本原理などを学び、36年には高島流砲術の免許皆伝を得ました。1837(天保8)年9月16日、武雄領内真手野での砲術訓練では、「旦那様(茂義のこと)、ボンベン、御自身御詰め込み遊ばされ候末、右玉、御試し打ちあそばされ候」と、自ら試し打ちを行なうほどに習熟を遂げていたことも確認できます。
 こうした武雄での砲術研究と西洋式調練の成果は、茂義の弟で佐賀本藩家臣の養子となった坂部三十郎により佐賀に伝えられ、藩主鍋島直正のもとで新たな発展を見せました。
 1840(天保11)年、茂義は佐賀城の東方、神埼郡の岩田で、藩主鍋島直正に武雄の砲術を披露。この大演習に大きな刺激を受けた藩主直正は西洋砲術の積極的導入を決意し、以後、佐賀藩として本格的な砲術研究の取り組みが開始され、西洋式大砲の鋳造や長崎港防備のための砲台築造の計画が着々と進行していくこととなりました。
 今回、武雄市資料館では、武雄から始まる西洋砲術の取り組みと蘭学の導入、それが佐賀藩や幕末日本の近代化に果たした役割を学ぶ特別企画展を開催します。
 
展示 大砲

場所:企画展示室・メディアホール(観覧無料)
期日:平成24年2月11日(土)〜3月20日(火)
 
担当学芸員のギャリートーク:いずれも13:30〜
2月11日(土)・25日(土)・3月11日(日)・20(火)

 

展示物の一部を下に紹介します。(図録通販は こちら 
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  第一章  世界の中のニッポン 長崎

 寛永17(1640)年、江戸幕府はキリスト教禁止と海外貿易統制の目的から鎖国の体制を完成、翌年には、平戸のオランダ商館を長崎の出島に移し、幕府は統制外交の道を歩み始めた。
 幕府は鎖国当初から、福岡藩と佐賀藩に対し長崎御番を命じ、両藩は一年交替で長崎の警備を義務付けられた。警備は厳重であることを義務付けられた故、多大な負担を伴うものであったが、鎖国の体制下、両藩は海外情報や学問・文化をいち早く摂取できる機会に恵まれることとなった。
 鎖国の完成から160年余を経た19世紀の初頭、イギリス軍艦フェートン号の長崎港侵入事件が発生。幕府や佐賀藩を震撼させたこの事件は、従来の警備体制の見直しを迫ることとなった。

 
長崎土産
   
 

長崎土産 一冊

 弘化4(1848)年
武雄市蔵

 江戸時代後期に長崎で書店を営んだ礒野信春(文斎)(通称大和屋由平)によって書かれた長崎の紹介本。武雄が蘭学の導入に力を入れた時代の長崎の名勝や、オランダ人・中国人の風俗なども描かれている。

 
   
 
 

  第二章  高島秋帆

 高島家は長崎町年寄の家柄で、19世紀初めに出島砲台の受け持ちを命じられたことから、和式砲術の荻野流増補新術を学び師範役となった。さらに高島秋帆(しゅうはん)は、火力のより強力な西洋砲術に注目。出島商館長ステュルレルに学んで研究を積み、西洋砲術の第一人者となった。
 武雄の領主鍋島茂義が家督を相続した天保3(1832)年、茂義は秋帆のもとに家臣平山醇左衛門を入門させた。平山の高島流砲術入門は佐賀藩としても初めてのことで、以後、佐賀藩の砲術は彼の教導により進展を遂げた。

 
   
 

肥前長嵜図

享和元(1801)年
武雄市蔵

 長崎の土産品として江戸時代に刷られた版画。現在の長崎県庁の位置に当たる「西御役所」からわずかに北上した「大村マチ」に「高嶌」と記されている。天保9(1838)年の火災以前の屋敷位置であり、長崎町年寄を務めた高島家が重要な存在であったことを示している。

 
   
肥前長嵜図
 
 

  第三章 武雄の砲術

 天保6(1835)年8月、長崎の高島秋帆の一行が武雄を訪れた。武雄に残る日本人によって初めて鋳造されたモルチール砲も、この時、武雄にもたらされたと考えられる。
 天保7(1836)年4月14日、武雄領主鍋島茂義は高島四郎太夫秋帆より「砲術御皆伝」を許された。また、高島の武雄訪問が刺激となり、武雄領内でもこの時期から大砲製作の準備が開始され、翌年11月の頃には武雄で大砲が鋳造されたと思われる。

 
「天保九戌三月改 御側御筒其外帳」「新御調御筒」
   
 

「天保九戌三月改 御側御筒其外帳」「新御調御筒」

天保9(1838)年
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 「天保五午の春、一、長崎有吉作之進製角石付剱長四尺壱寸八分余台尻部込入て惣尺四尺三寸三部余 蘭国製弐匁御筒 一挺」との記述があって、天保5(1834)年春に蘭式角石付剱付弐匁筒一挺が購入されたことがわかる。これは、ヨーロッパで普及していた燧石(ひうちいし)銃のことで、鍋島茂義はこの前後から最新式の銃砲に注目していたと見られる。

 
   
 
 

  第四章 佐賀藩プロジェクト

 天保11(1840)年9月6日、佐賀城の北東、神埼岩田の台場で、佐賀藩主鍋島直正の立会いのもと、武雄で訓練を重ねてきた西洋砲術演習の初披露がついに実現した。
 この岩田の演習上覧は、藩主直正の心を大きく動かし、本藩への西洋砲術導入に向けて大きなプロジェクトが進行することとなった。武雄で繰り返し行なわれてきた砲術調練の成果が、直正の面前で大輪の花を開かせた瞬間であった。 これ以降、佐賀本藩で西洋式大砲の鋳造や長崎港防備のための砲台築造の本格的な取り組みが着々と進行していく。

 
   
 

フランス海軍によるボンベカノン試射実験(武雄蘭書127) 一冊

ペキサンス著
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 1824年ブレストで行われたボンベカノン試射実験の報告書。「ボンベカノン」はペキサンス砲とも呼ばれる破裂弾用の新式砲。この脅威的な大砲の情報はアヘン戦争が勃発したに日本に伝わった。鍋島茂義は本書を弘化2(1845)年に購入した。

 
   
フランス海軍によるボンベカノン試射実験(武雄蘭書127)
 

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