平成23年度 武雄市図書館・歴史資料館ミニ企画展
タイトル


 鍋島ちょう(なべしまちょうこ)(1811〜1829)は、佐賀藩第9代藩主鍋島斉直の娘で、10代直正(閑叟)の異母姉。一般には「(ちょう)」を名乗りました。寵徳院(ちょうとくいん)は戒名。  文政10(1827)年2月、武雄の領主鍋島茂義と結婚。茂義は婚礼以前に、ちょう子が和歌に秀でていることを聞き、自らも和歌に励んだといいます。ちょう子もまた、茂義が得手とした絵画に興味を抱き、菊・牡丹の対幅など、「ちょう子」の署名のある絵画を残しています。しかし、結婚からわずか1年9ヶ月後、ちょう子は、産後の肥立ちが悪く、嬰児とともに18歳の短い生涯を閉じました。  鍋島直正の14歳年長であった茂義は、まだ幼い直正の所望で絵を描いて差し出すなど、直正とは兄弟分の間柄でしたが、ちょう子との結婚により成立した義兄弟の関係は、茂義の藩主直正に対する発言力・影響力をいっそう増大させることにつながりました。  その命は短かったものの、武雄と佐賀本藩を強固に結ぶ絆となり、幕末佐賀藩の近代化に向けて重要な役割を演じたちょう子。武雄鍋島家に伝わる彼女にまつわる資料をご紹介します。

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場所:蘭学館ミニ展示コーナー(観覧無料)
期日:平成24年3月16日(金)〜6月21日(水)


   
 

「倭歌七十首」

藤原紀義・ちょう子筆 二巻 紙本墨書
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 茂義とちょう子の和歌七十首ずつを巻物に仕立てたもの。巻頭には「藤原紀義」とあるが、「紀義」は茂義の旧名。文化9(1812)年から天保4(1833)年頃まで用いていたと思われる。

 
   
「倭歌七十首」

胡弓
   
 
 

胡弓

江戸時代後期
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 「寵徳院様御道具」と記された箱に納められた、日本の擦弦楽器である胡弓。主流は三弦だが、古典音楽の譜には三弦胡弓の最低音より低い音があるため、低音用の四弦胡弓が開発された。この胡弓は四弦で、棹にはトチと称される独特の木目がある紅木が用いられている。

 
 

蒔絵硯箱
   
 

蒔絵硯箱

江戸後期
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 箱には松竹梅が蒔絵(漆で絵や模様を描き、それが乾かないうちに金や銀などの金属粉を「蒔く」ことで器面に定着させる技法)で施され、箱及び錐にも花杏葉紋が配されている。ちょう子の嫁入り道具の一つではないかと推察される。

 
   

   
 

菊・牡丹図

ちょう子筆 双幅 江戸後期
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 茂義が様々な注文書の控えとして綴ったと考えられる「當用(とうよう)控」(武雄鍋島文書 武雄市蔵)には、私的な内容も多く含まれており、嘉永3(1850)年8月に、ちょう子が描いた菊・牡丹図の表装替えについて、『但、小床用尤余り小ク有之候故、中の内/ニへり入少々太メ都合克仕立之事/且風帯一文字中錦地天地ハ古キ鈍子ニテ/モヨシ』と細かい指示をしたことが記されている。この二福対は、その指示通りの状態で残されている。

 
   
菊・牡丹図

円応寺 東の御霊屋写真
   
 

円応寺 東の御霊屋写真

 円応寺にある武雄領主の御霊屋は、堂宇を中心に東西二ヶ所に分かれて位置し、茂義の御霊屋は堂宇の東側にある。写真右手が茂義(鶴雲浄天)の五輪塔、左側はちょう子(寵徳院)のもの、共に無くなった嬰児(紅蓮幻泡禅童子)の墓もある。
 また、後室能の御霊屋は茂義らの御霊屋の隣に、茂義のほうを向くかのように建てられている。

 
   


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