平成27年度 武雄市図書館・歴史資料館企画展

武 雄

〜鍋島家・温泉・やきもの〜

 武雄の鍋島家は、もとは「後藤」姓を名乗っていました。12世紀に武雄に居を構えたとされ、以来、連綿と続いてきた家柄です。武雄市歴史資料館所蔵の歴史資料の大半は、鍋島家から寄贈を受けたものです。
 また、武雄の温泉は、730年頃に成立した「肥前国風土記」にも記述が見られるほど古くから知られており、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際は、多くの武将たちが保養に訪れました。
 やきものは、縄文時代から武雄でも焼かれていたと考えられますが、産業として成立する転機を迎えたのは400年余り前のこと。秀吉の朝鮮出兵のおり、後藤氏が朝鮮陶工団を連れ帰ったのが始まりです。
 武雄市歴史資料館では、武雄を象徴する3つのキーワードで、武雄を紹介する展示を行います。

場所:蘭学・企画展示室(観覧無料)
期日:平成27年4月29日(祝)〜5月31日(日)

ギャリートークは、:いずれも13:30〜
4月29日(祝)・5月3日(祝)・5日(祝)・10日(日)
16日(土)・24日(日)・30日(土)


展示物の一部を下に紹介します。
(期間中、展示されていない場合があります)

源頼朝袖加判奉書
   
 

源頼朝袖加判奉書

佐賀県重要文化財
文治2(1186)年3月10日
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 源平争乱に際し、平氏追討の祈願をした武雄神社に対する感状。源頼朝の意を受けた平盛時が武雄神社へ差し出したもので、右余白部には頼朝の花押がある。本文最終行中の「鎌倉殿」というのは頼朝を指す。

 
   

   
 

能面「深井」

武雄鍋島家資料 武雄市蔵

  観世家所蔵の越智吉舟作の「深井」(重要文化財)を写したもの。越智吉舟は世阿弥(1363〜1443)と同時期に活躍した面打ち。面の裏に墨書きで「観世大夫フカイ/面直写之也」「大正十四年 丙戌/妙佐(花押)」、彫刻で「山」とあるが「大正十四年」については天正14年(1586)の誤りであると考えられる。唇は、後世の彩色。

 
   
能面「深井」

明治時代の武雄温泉
   
 

古写真「明治時代の武雄温泉」

 江戸時代、温泉は武雄領主の所有であり、ここに設けられた御茶屋は、長崎街道塚崎宿の本陣を兼ねた。一般客用の湯船の入湯料は領主の収入となり、懸硯(機密費)に繰り入れられて、湯元大修理等の特別の場合を除いて、他の事には一切使わせなかったとされる。
 明治になって国有とされた温泉は、その後下げ渡されて明治8年(1875)に成立した「塚崎温泉組」によって運営されるようになった。明治9年には組合員以外からも寄付を募り、3銭・2銭・5厘・3厘・2厘などの各種浴場を新築、改築した。その建築事務所の看板が現在の楼門の所に立っている。正面に旧館の屋根が見え、左手桜山入口には明治41年に建立された鳥居がある。

 
   

   
 

乍恐奉願候口上 覚

武雄鍋島家資料 武雄市蔵

眞手野村庄屋および黒牟田山庄屋より武雄鍋島家に対して「黒牟田山釜焼のため薪山拝領願」した件などが記されている。

 
   
乍恐奉願候口上 覚

百閒窯より採取の陶片
   
 

百閒窯より採取の陶片

武雄市蔵

 江戸時代のはじめに有田の泉山で磁石が発見され、以後、有田を中心に磁器が量産されるようになった。これはわが国の陶磁史上に大きな変革をもたらす事柄であった。この時期に磁器を焼成した窯のうち代表的なものとして、百間窯跡をはじめ有田町の原明窯跡・山辺田窯跡・天狗谷窯跡・泉山磁石場跡、嬉野市の不動山窯跡が肥前磁器窯跡として指定されている。
 百間窯跡は山内町板ノ川内の尾根の西斜面を東から西へ登る階段状連房式の登窯で、発掘調査で確認された焼成室の規模は、幅3.6m、奥行1.6m。焼成された製品には、染付を主体に白磁や青磁等の磁器や象嵌や二彩などの陶器がみられ、碗や皿・鉢・壷・水指など種類が豊富である。17世紀前半に操業していたと考えられる。

 
   


 武雄の蘭学   過去の企画展へ 

 歴史資料館TOPへ 

Copyright (C) Takeo City Library&Historical Museum