武雄蘭学事始



VOCマーク入り麻袋

VOCマーク入り麻袋(オランダ東インド会社)
マークの上部にはアムステルダム市の紋章も描かれています。砂糖や塩を入れた袋ではないかと思われます。

 徳川幕府は、支配体制の確立と相いれないキリシタンを徹底的に禁圧するため、外交・対外交通・貿易を極端に制限しました。いわゆる鎖国です。
 佐賀藩は、寛永十九年(一六四二)から黒田藩(福岡)と交替で、鎖国下の日本における西洋への唯一の窓口、長崎の警備に当たりました。
 そのため、佐賀藩の領地の一つである武雄も長崎に深いかかわりをもち、西洋文化に触れる機会を得ることになりました。
 十八世紀中期から十九世紀半ば、欧米では産業革命が進み、工業生産力が大きく伸びました。各国は製品の市場、また資源の開拓のため、アジアへの進出をめざしました。
 日本近海にも貿易や開港を求めるアメリカ、ロシア等の船が、たびたび現れるようになりました。
 文化五年(一八〇八)八月には、イギリスの軍艦フェートン号が、オランダの国旗を掲げて長崎に入港。出迎えのオランダ商館員二名を捕らえて、長崎湾の中を探索したうえ、薪と水・食料を強要しました。
 このとき、警備担当の佐賀藩は、オランダ船入港の時期が過ぎていたことから、藩兵のほとんどを帰藩させていました。
 兵力が足りない日本側は、フェートン号の要求を飲まざるを得ず、三日後には同艦の出港を、なす術無く見送りました。
 この事件は当時の幕府や各藩に深刻な衝撃を与え、海防政策・軍備強化を促すことになりました。 武雄が蘭学、殊に軍学への関心を深める契機の一つでもあったでしょう。
 後に、蘭学の導入を積極的に進めて行く武雄邑第二十八代領主鍋島茂義は、こうした時代のただ中、寛政十二年(一八〇〇)に、生まれました。


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