山口尚芳と岩倉使節団



ステレオ写真とステレオビュー

ステレオ写真とステレオビュー
ステレオ写真は、レンズでのぞくことで立体的に見える写真で、ステレオビューはこれを見るための器具です。尚芳が欧州土産に持ち帰ったものと考えられ、フランス、プロシア、イタリア、スイスなどの写真があります。

 幕末の武雄に育った人材の中でも、山口尚芳(ますか)は、明治四年(一八七一)、岩倉具視を全権大使とする使節団で、木戸孝允・大久保利通・伊藤博文とならび、全権副使を務めたことで知られています。
 尚芳は、天保十年(一八三九)生まれ。幼名は範蔵、治喜人。鍋島茂義に才能を見出だされ、嘉永六年(一八五三)頃に、長崎で洋学や英語を学びました。
 その後、尚芳は長崎や京都を往来し、大隈重信・副島種臣らと幕末から維新の世上で活躍しました。岩倉具視や薩摩の小松帯刀とも、交流が深かったと言われます。
 明治維新の後は、外国事務局御用掛を皮切りに、中央政府で様々な役職を務め、外務少輔の任にあるときに、特命全権副使を命じられることになります。
 尚芳は使節団の首脳として、アメリカ、イギリス、フランスなど十二か国を、一年十か月にわたって各国の政策、文化、諸制度を視察しました。国内の情勢のため、大使の中で全行程をたどったのは、岩倉と尚芳だけでした。
 また、当時九才の長男俊太郎を伴い、そのままイギリスに留学させました。俊太郎は九年の留学生活を送り、大学を卒業した明治二十年から二年、さらにアメリカの大学で学んでいます。
 米欧視察の間に、世界から日本をながめる視点を培った尚芳は、その後も初代の会計検査院長、元老院議官など、国家の要職を歴任しました。
 尚芳の生家跡には、昭和五年(一九三〇)、記念碑が建立され、今でも地元の人々によって「範蔵まつり」が行われています。


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