武雄の大砲つくり



大砲設計図

武雄で写された「6ポンドカノン砲と15ドイム曲射砲の野戦用けん引の木製部」設計図

 武雄第二十八代領主鍋島茂義は、長崎の西洋砲術家高島秋帆から砲術だけではなく、大砲の鋳造技術も学び、実際に大砲を作りました。
 武雄鍋島家には、輸入された大砲・武具の設計図、これらの写し、大砲の絵図・切形等が多数伝わっていて、大砲鋳造などの研究が、熱心に進められていたことがうかがえます。
 また、残された文書(注1)から、天保六年(一八三五)、秋帆が武雄を訪れたときに、大砲・砲弾鋳造用の地金購入が計画されたこと、天保七年四月に鋳造所および鋳型が用意されたこと、同年五月に銅等の地金が運び込まれたこと、などが読み取れます。
 さらに、武雄の儒者清水龍門の日記(注2)には、この年の十月十八日、茂義から大砲にきざむ銘文の作成を依頼されたことが記されています。
 これらのことから、この頃には、武雄でオランダ式の大砲(青銅砲)が作られたと考えられます。 鋳造所は、塚崎城(現武雄高校)二ノ丸跡にあったとされ、廣福寺内に細工場が作られたことも、記録(注3)に残っています。
 一方、大砲に不可欠な火薬の原料となる硝石は、始めは輸入品などを購入していましたが、その製造も、大砲鋳造計画と平行して準備されました。
 植物・動物性のちっ素を含んだ物を土に混ぜておくと、バクテリアの作用で硝石が作り出されます。武内町内田などに残る『づうめき』は、この硝石生成のため、動物の内臓が埋められた場所だと言われています。
 昭和四十九年(一九七四)には武内町柿田代で、圃場整備の工事中、水車を用いた硝石の加工場跡らしきものも見つかっています。(注4)
 ※河川改修工事の最中に石組暗渠が確認され、平成十八年十月、改めて調査が行われた。

※注1 『午年ヨリ長崎高島四良太夫ヨリ御調入物其外控』(「武雄鍋島文書目録」I−93)
     『(仮)御筒鋳立ニ付所要施設諸道具見込み』(「武雄鍋島文書目録」I−181)
※注2 個人蔵(現在所在不明)
※注3 『(仮)高島面談応接心得』(「武雄鍋島文書目録」I−188)
     『書付』(今泉文書館 整理番号2346)

※注4 湯か里34号(武雄歴史研究会)



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