高島秋帆と武雄の砲術



モルチール砲

モルチール砲と裏面の銘文(右下)

 武雄に残る大砲の一つ、モルチール砲は、日本人の手によって初めて鋳造された洋式大砲です。
 砲身上面には、オランダ語で『オランダの年号一八三五年に初めて日本で鋳造された』、また裏面には『皇国莫兒氏(モルチール)開基/高島四郎兵衛源茂紀/高島四郎太夫源茂敦/日本砲術家従来未知放之/造之 天保六年 乙未/七月令鑄法門人嶋安宗八/鑄之』と刻まれています。
 高島家は代々、長崎の市政を実質的に取りまとめる町年寄(まちどしより)を務め、長崎警備の一環として出島台場(砲台)を受け持った関係から、砲術を学ぶ必要がありました。
 高島四郎太夫、別名秋帆(しゅうはん)は、日本の砲術が西洋砲術に及ばないことを痛感していました。そこで、町年寄の特権を利用して出島のオランダ商館に出入りし、洋式の銃陣・砲術を研究。高島流砲術を確立して、西洋砲術の第一人者となりました。
 武雄領主鍋島茂義は、天保三年(一八三二)(注1)、家臣平山醇左衛門を秋帆に入門させ、彼を取次役として高島流砲術を学びました。二年後には、茂義自身も入門しています。(注2)
 天保六年(注3)、秋帆は武雄に来て、大砲の射撃場の下見などを行いました。モルチール砲が引き渡されたのも、この時だと思われます。
 同年、東川登町永野に台場が設けられました。ここから、南に一km余り離れた張琴岳に向かって試射が行われたのです。
 天保十二年(一八四一)、幕府は海防等の急を説く秋帆の進言を入れ、江戸近郊の徳丸原で西洋式調練を行わせました。幕府が西洋砲術を導入するきっかけとなった演習です。
 この演習には武雄からも、平山醇左衛門が参加しています。

※注1 『流儀唱(威遠流)』(「武雄鍋島文書目録」I−68)
※注2 『天保八丁酉諸控』(「武雄鍋島文書目録」I−162)
※注3 『武雄行日記』(「長崎県立長崎図書館蔵)
※参照 『武雄鍋島家の砲術』(一)〜(六)(真島日光雄著/新郷土391〜396号掲載)



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