武雄に眠っていた大砲



昭和十年に発掘された大砲

昭和十年に発掘された大砲

 昭和十年(一九三五)、武雄鍋島家邸(現在の武雄市文化会館)の庭園で、大砲十八門と多数の小銃・刀剣などが見つかりました。小銃や刀剣類は錆びてくずれていましたが、大砲は元の形を保っていました。鉄製と青銅製が半々だったとされます。
 明治維新のとき、それぞれの藩が持つ大砲等の近代的な武器は国のものとされ、その後改めて各地に配備されました。
 けれど各藩とも、全ての武器を引き渡すことはなかったようです。武雄もかなりの数を、手元に残したと思われます。
 明治四年(一八七一)六月の大小銃仕分帳(注1)には、武雄軍団に十七門の大砲と八五〇挺の小銃を置くとが記録されています。
 佐賀武庫所よりはるかに多い数ですが、これらは、明治七年の佐賀の役の後、没収されることになりました。このとき、記録にない武器があっては政府に疑われるため、手持ちの武器の多くが土の中に隠されたのだと考えられます。
 しかし、せっかく見つかった大砲も、第二次世界大戦末に再び埋められ、昭和三十六年(一九六一)夏、改めて掘り出されたのは、モルチール砲、試薬臼砲、ボンベン野戦砲の、青銅製大砲三門だけでした。
 残りの大砲がどうなったのか、はっきりしたことは判っていませんが、一部は戦争に伴う金属供出で失われたものと思われます。
 けれど、昭和六十一年十月二日には、同じ庭園内から、新たにナポレオン式四斤野砲が発掘されました。これは、昭和十年に発掘された中にもないものでした。
 武雄のどこかには、まだ大砲が眠っているのかもしれません。

※注1 『大小銃並附属品々仕分帳』(「武雄鍋島文書目録」M−32)


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