皆春齋(鍋島茂義)とその事蹟



皆春齋展図録

「皆春齋」展図録表紙
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 皆春齋は、28代武雄領主鍋島茂義(1800〜62)の雅号である。
 武雄鍋島家の起こりは、前九年の役(1051)までさかのぼるとされる。20代までは後藤を称したが、戦国時代末期から江戸時代初頭の混迷期、肥前の実権が龍造寺家から鍋島家に移る過程で、後藤家も鍋島家の傘下に入り、鍋島を名乗るようになった。ちなみに、20代領主は、龍造寺家から後藤家へ養子に入っている。
 江戸時代の武雄領は知行21,600石、龍造寺系の他の三家、諌早家・多久家・須古鍋島家とともに、藩の請役(家老)を務め、領内での大幅な自治を許された。
 茂義は、27代茂順(しげより)の五男で、兄たちが早世したため33才で家督を継いだ。
 幼名は孟太郎、冨八郎。文化8年(1811)12月11日に嫡子となったのを機に、同月15日孟太郎の名を冨八郎と改めた。文化9年12月朔日には御目見を済ませ、同月5日に(いみな)を紀義と定めている。また文化13年3月12日には、名を十左衛門と改め、天保4年(1833)元旦から同5年秋までのいずれかの時期、おそらくは天保4年9月15日頃に、諱を茂義と改めている。家督を継いだのはその前年、天保3年8月のことである。
 室は9代佐賀藩主鍋島斉直の娘、寵姫であるが、婚礼からわずか1年9ヶ月後の文政12年(1829)11月、産褥で嬰児とともに19歳の生涯を閉じた。婚礼前に寵姫が和歌を得手としていることを聞き及び、自らも和歌に励んだと言う茂義は、寵姫の十七回忌、三十三回忌にも追慕の歌を詠んでいる。
 後室は、白石鍋島家5代鍋島山城直章の娘・能。婚礼の時期ははっきりしていないが、彼女も嘉永元年(1848)8月、茂義に先んじて世を去っている。
 茂義は、若年の頃から俊才で知られ、23才のおり、部屋住みの身でありながら請役に抜擢されている。けれど政策等の上で藩主との衝突が多く、天保3年(1832)に御呵を蒙って請役を免ぜられた後は、藩政より一切身を引いた。
 以後、武雄において軍事、医学、化学など、幅広い分野で蘭学の導入に努めたのである。
 佐賀藩は寛永18年(1641)から、福岡藩と交代で、当時西洋へのただ一つの窓口であった長崎の警備を担当していた。
 茂義の時代、日本の海防は、近海へのロシア・イギリス・アメリカ船の出没によって、強化を迫られていた。任のため長崎へおもむき、オランダ船を見学する機会に恵まれた茂義は、西洋の科学力に深い感銘を受け、積極的な摂取を決意したと言う。
 手初めに最新式の火打ち銃を輸入した茂義は、次いで大砲にも目を付け、西洋砲術の第一人者であった長崎の町年寄・高島四郎太夫(秋帆(しゅうはん)と号した)に、砲術と大砲鋳造の基本原理などを学んだ。鉄製大砲にまで手が及んだかどうかは不明だが、青銅製の大砲は、天保7年(1836)頃には武雄で作られていたと考えられる。
 現在も武雄には、秋帆製作のモルチール砲を始め、試薬臼砲、ボンベン野戦砲、ナポレオン式四斤野砲の、四門の青銅製大砲が残っている。いずれも、旧領主別邸の庭園から発掘されたものである。
 武雄のあげた成果は、本藩家臣の養子となった茂義の弟、坂部三十郎によって佐賀藩に伝えられ、閑叟(11代佐賀藩主鍋島直正)の下で「佐賀藩の砲術」として盛んになって行くことになる。
 茂義が取り入れたのは、軍事方面の技術に止まらなかった。
 嘉永2年(1849)、閑叟が世子直大に種痘(牛痘)を施し、日本での組織的な種痘の嚆矢としたことは有名だが、茂義もその10年ほど前、お抱え医師に種痘を実施させている。
 それ以外にもガラスの製作、火術・火薬の研究、写真術の導入、蒸気船の製造など、様々な仕事に取り組んでいる。
 こうした働きの最中、天保10年(1839)、茂義は40才で家督を世嗣茂昌(しげはる)に譲った。表向きは病身が理由だが、当時茂昌はわずかに8才。以後も領内の実権が茂義の手にあったろうことは想像に難くない。
 自身が先頭に立っての西洋文明の摂取、加えて領内の統治という多忙な日々を過ごした茂義であるが、なお多くの趣味も楽しんでいたことが、古老の聞き書きから伺える。
 狩猟、能楽、絵画、鳥・虫等の飼育、鉱石・魚骨の採集、花卉の栽培など、その興の向くところは多岐にわたっている。
 狩猟については、趣味というより武芸習練の意味合いが強かったようで、参加者は各々得意の武術で獲物を倒すことを求められた。茂義自身、手負いの猪を脇差で仕留めたと言う。しかし、獲物となる猪や鹿を保護したため、領民がその害に苦しみ、とうとう藩主から叱責を受けるはめにもなった。それでも方針を変えようとはしなかったそうだから、是非はさておき、何事につけ自らの思うところを貫き通す、信念の人であったのは確かだろう。
 鳥・虫の飼育、鉱石・魚骨の採集、花卉の栽培などは、自然科学への関心の深さを示すものと受け取れる。19世紀前半、日本国内では薬草の研究としての「本草学」の範囲をこえ、植物学、鉱物学などの自然科学への探求心が根付きつつあった。茂義の指向もこれと無縁ではなかったろう。とくに花卉については領内二か所に薬園を設け、温室設備も用いて国内外の各種の植物を育成した。植物図譜の編纂も行ったとされ、武雄鍋島家に残された3冊の植物図絵、4冊のさく葉帳がその作業の一端を伝えている。
 ちょっと変わったところでは、理化学の実験・製薬を趣味としていたとの話もある。能面に用いる猩々緋の出来栄えが気に入らず、ついには自身で染料を作り出して染めたこともあったそうである。
 また、当時、領主の世嗣ともなれば英才教育がほどこされ、教師陣にも一流の人物が当てられたはずだが、絵画と能楽については、茂義自ら茂昌への手ほどきを行ったと言うから、殿様芸の域には収まっていなかったのだろう。
 生前、側近に「人間は一生の中に多くの仕事を成し遂げた者が長生きしたのである。例え事実に於いて長命なるも、其の成し遂げた仕事が少なければ早死にしたのも同様である」と告げた言葉のままに、実に濃厚な生を送った人物であったというべきであろう。



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