御船山

相賀照忠(あいがてるただ) (1816〜1877)

 幕末から明治にかけて武雄温泉通りの老舗「ひとつや」の店主で、歌人。1816(文化13)年、杵島郡甘久村(現在、武雄市朝日町)に橋口要助の二男として生まれた。1838(天保9)年、22歳の時、相賀家に入婿、実名照忠、通称嘉兵衛を名乗った。
 「ひとつや」という屋号は、武雄の町に一軒しかない小売店という意味の命名で、照忠入婿と同時期の創業と考えられ、1865(元治2)年、唐津材木町の町年寄平松儀右衛門の『道中日記』中の武雄湯町のスケッチにも「一ツ屋」の記載が見える。創業時の「ひとつや」の販売品目は明らかではないが、1932(昭和7)年刊『武雄案内』には販売品の筆頭に「火薬」が挙げられている。「ひとつや」創業の当時、天保9年の武雄は、領主鍋島茂義が中心となって西洋砲術の研究に積極的に取り組んだ時期で、相賀家は合わせて領内の殖産興業を図る「物産方」という役割も担っており、店の発展は武雄の砲術研究の展開と緊密に結びついて、その後に至ったと考えられる。
 入婿とほぼ同時に家業を継いだ照忠は、事業の傍ら、1852(嘉永5)年、36歳の頃から本格的に和歌の制作に着手した。長崎で活躍した歌人中島広足(ひろたり)愛弟子(まなでし)となり、さらに佐賀の代表的歌人である鍋島直正の側近古川松根(まつね)や、唐津藩主小笠原長昌の弟で執政として藩の実権者でもあった長光(ながてる)を師として交わった。1871(明治4)年春までの約20年間で、歌集『あまのをぐし』全五集、歌の古典学習帳というべき『咲にほふ花』(仮題)、佐賀の歌人今泉蟹守編纂の『類題白縫(しらぬい)集』の採録作などを発表。「春のよはゆめも山路にまよふかな見はてぬ花をおもかげにして」(『あまのをぐし』二)など、夢幻的な美の世界を紡ぎ出すことに彼独自の魅力が見られるという。
 彼の作品総数は約1,700首に及び、この数は蓮池藩主の鍋島直与(なおとも)や今泉蟹守に次ぐ作品数で、まさに近世末から近代初頭にかけての佐賀を代表する歌人であったといえる。

※今回は池田賢士郎氏の労作『武雄の歌人 相賀照忠』を参考とした。従来、無名に等しかった相賀照忠という人物に光を当て、研究を掘り下げられた池田氏に敬意を表したい。

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