御船山

遠藤 新(えんどうあらた)(1889〜1951)


如蘭塾エントランス


 如蘭塾エントランス
 塾舎と寄宿舎の中間部分にあるエントランス。ライト風の大谷石積みの柱2本が立つ吹き放ちとなっている。

 福島県相馬郡福田村(現新地町)出身。第二高等学校を経て東京帝国大学建築学科卒業。明治神宮の建設に関わった後、1917(大正6)年、帝国ホテルの設計を引き受けたライトの建築設計事務所に勤める。ライトは途中で帰国するが、遠藤ら弟子が帝国ホテルを完成させた。また、自由学園、山邑邸も、ライトの基本設計を元に完成。1935(昭和10)年からは満州と日本を行き来して設計活動を行った。
 戦後、1949(昭和24)年からは文部省学校建築企画協議会員を務め、戦後占領下の日本における学校建築のあり方に対する提言を行った。1951(昭和26)年4月に体調を崩し、2ヶ月後に死去した。
 遠藤は、独立後もライトに心酔し、ライトばりの建築を設計し続けたため、ライトの使徒とも呼ばれ、独創性がないと軽視されることもあった。しかし、ライトの設計思想をよく理解した遠藤の作品は、ヒューマンスケールな広がりのある空間で多くの人に親しまれており、再評価が行われている。
 遠藤には「満州女塾」と呼ばれた幻の作品があったが、所在地や設計内容は不明のままであった。1995(平成7)年、その「満州女塾」が如蘭塾であることが確認された。如蘭塾の創始者である野中忠太と満州で活躍中に知り合い、1941(昭和16)年に設計を依頼され、翌1942年初めには竣工したと考えられる。武雄のランドシンボルである御船山の麓に建つ如蘭塾は、「建築物は自然と調和した生活者レベルの建物でなければならない」との遠藤の設計哲学に基づいた建物と言えよう。
 1999(平成11)年9月、如蘭塾の迎賓館「含章閣」、塾舎、寄宿舎が国の登録文化財に指定された。

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