御船山

後藤敬親(1843〜1917)


「焦源沸水湯谷揚濤」記念碑


武雄温泉「焦源沸水湯谷揚濤」記念碑(大正4年8月建立)
 武雄温泉楼門と新館の後方、桜山公園の広場に立てられている。碑文の題は、佐賀藩士の子として生まれ、大隈内閣のもとで逓信大臣や大蔵大臣を勤めるなど政界で活躍した武富時敏によるもの。

 武雄では、領主武雄鍋島家の旧姓であるため、「後藤」の姓を名乗ることは久しく禁止された。しかし、武雄領主23代の鍋島茂紀の子信貞が18世紀中頃、後藤を名乗ったことで復興。さらに、25代鍋島茂昭の子で、26代茂明の弟忠敬が後藤を名乗った。これがいわゆる「西後藤」家である(「東後藤」家は、28代鍋島茂義の子保明から)。この忠敬の曾孫が敬親で、石井良一の『武雄史』に「武雄最後の漢学者」と評される。
 8歳で武雄の邑校身教館に入学、1869(明治2)年、26歳の時、火災で焼失して廃校となるまで在学したと見られる。この間、戊辰戦争の際は、留守居を仰せつかり出兵することはなかった。1874(明治7)年に始まる武雄小学校、その後の県立武雄中学校で教鞭を執り、一貫して教育者としての道を歩んだ。65歳の時、漢文でしたためた自歴で、彼は、自ら学んだ漢学が英才を育て大器を成すに十分なものではなかったと自嘲しながらも、初学の者の知能を啓発するには少なからずの貢献をなしたと振りかえり、なおまた後進の士、賢者、才者が彬々(ひんぴん)として出ずるようになったと喜んだ。さらに「健剛にして血気いまだ衰えず」と自らの壮健さを誇示、子孫への戒めとして「業、艱嶮(かんけん)(=険しい所)を()み、学、苦辛を()む、富に淫せず、貧に屈せず、剛毅を発強し、先人を顕すべし」と結んだ。
 1915(大正4)年、武雄温泉の楼門と新館が落成。この折に建立された記念碑に刻まれた「物は換わり星も移り、往古から未来にわたり、さまざまな災害に見舞われるとも、その質、その量変わらず、日夜こんこんと湧き出ずる泉こそ、武雄温泉なり(原文意訳)」で始まる銘文は彼の作で、「郡治の西、武陵の里、峯有り白龍、その峯峨々、泉有り蓬莱、その泉混々、古の桃源、今の都市、文明の花、新築の美、碑陰に誌し、後人に告ぐ(原漢文)」という締めくくりの漢詩は、まさしく漢学者後藤敬親の面目を躍如たらしむる美文である。
 ※漢詩中の「白龍」は、温泉楼門の脇にそびえる岩山の桜山を指す。

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