御船山

平山醇左衛門(1809〜1843)


攻城 阿蘭陀由里安牟相伝


 攻城 阿蘭陀由里安牟相伝(武雄鍋島家資料 武雄市蔵)

 江戸時代後期の武雄鍋島家家臣。記録には平山山平の名でも登場するが、これは武雄領主鍋島茂義が親しみを込めて与えたあだ名であるという。天保3年(1832)、平山は、領主茂義の命により佐賀藩から初めて、西洋砲術の第一人者であった長崎の高島秋帆の門下となった。
 武雄鍋島家資料「攻城 阿蘭陀由里安牟相伝」(武雄市蔵)は、17世紀半ばにスウェーデン人ユリアン・スヘーデルが江戸幕府に教授した測量・砲術・攻城法の教本で、砲術修業の一環として平山が高島のもとで筆写したものと見られ、現存唯一の資料である。また、幕府が西洋兵学を採用する契機となる、天保12年(1841)、高島秋帆が江戸徳丸原で行なった大砲の実射演習にも参加。武雄のみならず、この頃から本格化する佐賀本藩への西洋砲術の導入にも指導的な役割を果たした。
 この後、天保14年、高島は讒訴により幕府に捕えられるが、事件への連座を恐れたため、これを機に佐賀藩では高島流砲術の名を威遠流と改めた。また、同年12月、平山は斬首に処せられ非業の死を遂げた。
 山内町鳥海にある彼の墓碑には「行年三十四才」と刻されている。処刑の理由は謎のままだが、西洋砲術の導入を始まりとする幕末佐賀藩の近代化、ひいては日本の近代化を考える時、平山醇左衛門の果たした功績は大きい。

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