御船山

稲富東三 (1806〜1891)

 翁は朝日村甘久の出身文化三(1806)年十一月草場貞兵衛の三男に生れ、長じて同地の稲富惣兵衛の養子に入り仝家(どうけ)を継ぐ。
 幼にして武雄左門の塾に学び、研学の傍ら小性(小姓?)の役を勤めたと伝ふ。
 時に年十四五かつて藩主鍋島家に使いする途中友人に会ひ、突然甘久の実家が崖崩れのため総ての家産を失ひ、破滅の憂き目に遭ったと聞いて驚き、急に用を済し武雄家に帰り親しく実家の惨状を訴へ暇を請ふて家に帰り、具さに、その惨状の実況を見て悲憤感奮おくところを知らず。
 翁は祖先の墓に詣で、亡親の石碑にぬかづき泣いて曰く「今日かくのごとくなった有様を見ましては誠に残念でたまりません他日必ず私が一手に吾が家を再興致します」と自活再興の念は、いやが上に()え堅き決心は、(ここ)に定り爾来(じらい)一両年は煩悶の中に過し明けて十七才の春漸く曙光を認め愈々方針の確立を見た。
 翁は農をもって本位とし、傍ら売薬の行商に志し、常に精力的勤労主義を信条として、寸時も怠ることがなかった。幸に数年の豊作は資力蔭弱な経営の基礎を堅固に売薬の行商又世人の信用を得て、販路も広まり翌(翁?)独特の勤倹は、()いて世人を感化し(夜なべ早起人の及ばないところ、而も藁一筋縄一切でも之を捨てたことがない。草鞋は片方づつおろし一足ともにおろしたことがないと)其の労苦と努力は翁が成功の第一歩を築いた。
 翁は性剛毅にして質朴堅忍又慈善に富み、敬礼の念一層深く、明治の初年武雄温泉改築の際組合外にありながら、率先してその資を寄贈し之を援けた。
 今尚は遺族には旧館一号湯無料入浴券を贈られていると云ふ。又武雄神社修築に当っても率先して、寄附をしたことも今もって拝殿内標札に朱書の掲示がある。
 尚ほ旧武雄中学校へ当時の金円で壱百円を初め高橋小学校、朝日村役場、武雄町役場並に神社仏閣等へ、寄附寄進多く、親族知己に対しては、直接間接相応の援助を与へた事項数多く、其の信用又厚かった。
 公職としては、旧藩時代の経歴は判明しないが、一部里部において検査方の助手のような役目を仰付ったようである。後に真手野村の庄屋を勤め其の精勤の功によって、感賞され、家録三石を増給せられ、卒族にして又五石の録をはむだ。尚ほ士分に昌格の沙汰があったが、翁は固辞して受けなかったと云ふ。
 勤務中現在鍋島家所有の武内村大字真手野字田手山の開墾は実に翁の建言によって開墾せられたもので、翁は自らその主役に当り首尾よく竣成を見たばかりか、感賞増録されたのである。
 明治維新に際して特に土地整理に関与し又明治十五、六年頃甘久に同志と図り、私立金融機関を開設し、之の常務に当り隆盛に努力したか、越えて十九(1886)年株式会社に変更し、甘久共同株式会社となる。翁はその取締役兼支配人の重任を負ひ、老体をかへりみず、専ら実務に当り。旧武雄銀行(現佐賀興業銀行武雄支店)基の礎を造り、明治二十四(1891)年十月六日現職のまま令七十六を一期として永眠した。
 却説(さて)明治二十二年春本県改良米規則の発布実施されるとき、翌(翁?)は之が初期の地方取締りを命ぜられ、大いに産米改良に努め、或は甘久庄屋、朝日村々会議員として、村政に功献した。

出典:『杵島郡便覧』(昭和29年5月発行・編集兼発行者 小池春次)
旧漢字は、適宜、新漢字に置き換え、西暦年・読み仮名等を補足した。

※註
 卒族とは、1869(明治2)年、旧足軽以下の下級武士に与えられた呼称。1872年には廃され、一部は士族に、他は平民に編入された。

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