御船山

田中耕太郎(たなかこうたろう)(1890〜1974)


田中耕太郎


 田中耕太郎 戦後日本初の国際司法裁判所判事

 明治23年10月25日鹿児島で生まれる。杵島郡北方町出身。父秀夫が判事として最初に赴任(ふにん)したのが鹿児島地方裁判所であった。父親の転勤で転校を繰り返し、福岡の修猷館(しゅうゆうかん)中学を経て第一高等学校、東京帝国大学(現東京大学)に進み、大正4年主席で卒業した。その後、東京帝国大学助教授・教授・法学部長、昭和21年には文部大臣、同22年から25年まで参議院議員を歴任し、同35年に最高裁判所長官を10年間務め、退官。文化勲章(ぶんかくんしょう)を受章した。
 退官4ヵ月後、国連の機関である国際司法裁判所判事としてオランダのハーグに着任した。日本人としては戦後初めてのことで、昭和36年2月から同45年2月までの9年間におよぶものであった。在任中9件の事件を扱い、中でも南アフリカ共和国の人種差別問題では、裁判の基礎は正義・平和だが、国際問題はスケールが大きく、人種問題の複雑さをつくづくと感じていたようである。
 昭和27年北方中学校校歌作詞作曲、昭和42年北方町名誉町民。昭和49年大勲位菊花大綬章(だいくんいきっかだいじゅしょう)受章。

※この稿については、写真・文ともに武雄市文化連盟寄贈の陶板(武雄市蔵)から転載した。

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