御船山

光岡威一郎(みつおかいいちろう)(1869〜1900)


光岡威一郎


 光岡威一郎
  (武雄市図書館・歴史資料館に掲示の陶板より転載)
 実業之日本社は、東京都中央区の銀座一丁目に本社を置き、創業110年を超える老舗出版社として、現在も伝統を引き継ぐ経済・経営書のほか、一般教養・ファッション・旅行ガイド・コミック誌などの刊行を行なっている。社史には、明治30年6月10日創業とあり、これはまさに光岡が『実業之日本』第一号を発刊した日にあたる。

 現在の武雄市朝日町甘久の出身。1869(明治2)年3月15日の生まれ。1926(大正15)年頃刊の『朝日村史』に光岡栄作の長男とある。父栄作については、明治2年『上総家来知行切米其外身格附』(武雄鍋島家資料)に「切米五石 光岡栄作 三十才 近習 現米壱石七斗五升 居所 甘久村」、また翌年の『惣着到』に「武雄易之助組 光岡栄作」の記載が見え、武雄鍋島家の家臣であったことが分かる。
 武雄中学校を中退、『朝日村史』によれば、その後、西松浦郡大山村小学校教員になった。(石井良一『武雄史』に武雄中学校中退、『朝日村史』には武雄中学校卒業とある。石井は、光岡とは同い年で親友、彼の事業に相当の物質的援助をおこなったと記すことから、『武雄史』の記述の信憑が高いと判断したい) 1890(明治23)年、東京専門学校(早稲田大学の前身)に入り1893年卒業、引き続き同校助手を勤めた。当時、日清戦争に勝利した日本は、産業の成長と国民的自負が高揚、人々の間に向学心が急速に芽生えた。そうした機運を背景に、光岡は東京専門学校卒業直後から実業教育の講義録発行を計画、1895年5月、大日本実業学会を組織し、実業の通信講座を開始。「農科」「商科」、さらに「高等農科」「高等商科」の講義録を発行、また「参考科」として月一回時事を報道し名士の講演を掲載し会員に配布した。つづいて1897年6月、『実業之日本』第一号を発刊すると、日本の資本主義の発展に呼応するかのように、購読の申し込みが殺到、『実業之日本』は急速に発行部数を増やした。『実業之日本』の創刊は、日本史上でも特記すべき出来事となっている。
 しかし、同会発展の順風とは逆に、1900(明治33)年春頃から光岡は肺に病を患い、容態は急速に悪化、薬石効なく、9月6日、わずか31年の生涯を終えた。
光岡は死の間際、『実業之日本』の編集および発行権を、創業以来、編集を補佐した増田儀一(後に民政党代議士、衆議院副議長となる)に譲り、彼のもとで実業之日本社が設立、以後、その社名を知らぬ人はいないほどに飛躍を遂げ隆盛を極めることとなった。
 『朝日村史』は「(光岡は)一に朝日村の成功者にあらず、日本の偉人なり、又、世界的の人物なり」とその稿を結んでいる。

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