御船山

馬渡栄助(もうたいえいすけ) (1835〜1868)


葉隠墓苑


 葉隠墓苑
 彼らが眠っていたその同じ場所に、戊辰戦争から120年、2度目の戊辰の年の1988(昭和63)年、葉隠墓苑が造成され、武雄市長・佐賀市長らも出席して盛大な除幕式が挙行された。手前3基の墓石のうち、向かって右側(一番手前)が馬渡栄助の墓。現地では、毎年10月の第3日曜日に現地の人達により慰霊祭が執り行われている。

 1986(昭和61)年、秋田県秋田市新屋西地区の丘陵地でのこと。当時、原野であった付近一帯の土地区画整備にあたり、一画にある無縁仏となった墓石の移転が必要になった。そのうちの三基は「佐賀藩兵 卒兵蔵之墓」「佐賀官軍 平兵エ之墓」と「肥前武雄 馬渡栄助之墓」で、いずれも明治初年、戊辰戦争の折に佐賀藩から出兵し、戦没した兵士の墓であった。
 旧幕府軍に包囲され焼土となる寸前であった秋田を救うため、遥か九州から出兵し戦って死んだ彼らの魂を慰めることはできないか、地元秋田の人々により彼らの身元調査が開始され、武雄に馬渡栄助の子孫が判明した。7月には当時の石井義彦武雄市長を団長とする市議団もこの地を訪れ、盛大な合同慰霊祭も行なわれた。翌年1月、3基の墓石改葬のための発掘調査が氷点下7.8度という、凍てつく寒さの中で行なわれ、遺骨のほか、刀、キセルなどの副葬品が出土した。遺骸は、彼らの犠牲により秋田城下が戦禍から免れたことに感謝を込め、頭を遠く佐賀の方角に向けて葬られていた。
 馬渡栄助は、武雄の足軽隊の一員(今泉家文書「慶応四辰年六月 出勢仕組」)、武雄鍋島家資料『慶応元年石席惣着到』に記載がある、合計75石の物成を支給された小川内蔵進組の武雄足軽(武雄町居住の足軽)25人の内の一人と思われる。
 1868(慶応4)年8月29日、薩摩軍艦春日丸からの援護射撃を得、海陸連携の作戦行動中であった秋田勢の苦戦の報せを聞き武雄隊が出動、秋田市南部の勝手付近で、旧幕府方庄内勢との間に大激戦が展開された。雨霰と飛び交う凄まじい弾丸と、俄かに起こった烈しい暴風雨で砂石が礫のように顔を打つ中、戦闘は早朝から夜まで続き、秋田勢は結局退却を余儀なくされた。『茂昌公羽州御陣中記』(武雄鍋島家資料)等によれば、この時、馬渡栄助は深手を負い、武雄隊の本陣が置かれた新屋に退いたものの、その夜遅く遂に息を引き取った。34歳、武雄を遥かに隔たった異郷での寂しい最期であった。
 1993(平成5)年12月、東北の祭りを代表する秋田の竿燈が、従来の門外不出の禁を取り払って武雄市と佐賀市で演じられ、両市街いずれも空前の人波で埋め尽くされた。120年余の時を越えて、武雄の兵士らが取り持った佐賀と秋田の新たな交流の始まりであった。

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