御船山

西記志十(にしきしじゅう)(1812〜1855)


ボンベカノン


 西記志十訳「ボンベカノン」(武雄鍋島家資料 武雄市蔵)

 日本は、戦国末頃から長崎でポルトガルと、江戸初期にはオランダと平戸で積極的に貿易を行うようになった。西家はその頃からの由緒ある通訳の家柄である。はじめはポルトガル語とオランダ語を使い分けていたため「南蛮通詞」と呼ばれたが、のちには「阿蘭陀(オランダ)通詞」と呼ばれるようになった。通詞の基本構成は稽古通詞・小通詞・大通詞で、長崎に相当数おり実力が認められると格や俸給も上昇した。
 西記志十は、小通詞時代の1843(天保14)年、長崎居住のまま「米五石四斗 三人扶持」で武雄の家臣としても抱えられ、武雄が購入した数百冊に及ぶ蘭書の翻訳にも力を尽くした。特にアヘン戦争勃発当時、世界を震撼させた圧倒的破壊力を持つ大砲「ボンベカノン」の情報がいち早く武雄にもたらされると、領主鍋島茂義は即座にその試射実験報告書の原書を入手、西に翻訳を命じた。
 1844(弘化元)年、オランダ使節が国王の親書をもたらした際、幕府への差立てに同行。2年後、ロシア使節プチャーチンの長崎来航でも専任御用を命じられたが、秘書官として来日した作家ゴンチャロフは『日本渡航記』に、西のことを「その男はでっぷりとした丸顔で、…上の前歯がどうにもならないほど突き出ていた…」と書き残している。のち、大通詞となり西吉兵衛(11代)を襲名。武雄や佐賀藩の西洋科学技術の導入のうえでも多大な貢献を果たした人物である。

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