御船山

野田源三郎(のだげんざぶろう)(生没年不詳)

 長崎の人。武雄や佐賀への薬種や植物の移入にあたり、功績を果たした人物。青葭(せいか)という号を名乗る。日蘭学会編『洋学史事典』(雄松堂出版)等によれば、京都の儒医、また本草家で『百品考』を編纂した山本亡羊(ぼうよう)の弟子となり、その後、長崎の薬種目利(やくしゅめきき)(鑑定を行なう役人)頭取の中島嘉兵衛に学んだ。1850(嘉永3)年には『拾品考(じっぴんこう)』を刊行した。また、1856(安政3年)には、長崎御薬園掛助、さらに長崎御薬園掛を命じられ、1859年には長崎の戸町轆轤辻に5町(約5万㎡)ほどの植物場が設けられると、植物方に命ぜられた。薬用植物、とくに舶来の植物の栽培に功があったとされる。
 武雄領主鍋島茂義のいわゆる買い物帳である『長崎方控』(武雄鍋島家資料)にも、野田源三郎の名前はしきりに登場し、博物学全般にわたり強い関心を抱いていた茂義から舶来や国内産のさまざまな植物類の注文に応じている。
 牟田悌一著『近世武雄史談』(武雄鍋島家資料)にも、「公(茂義)ハ御薬園と赤穂山トニ薬草ヲ栽培セラレ、植物図譜ヲモ編纂セラレタ」など、植物栽培に関する記述が多く見られ、植物に対する茂義の関心の高さを窺い知ることができる。1865(慶応元)年の『石席惣着到』(武雄鍋島家資料)にも「二人扶持 三石六斗  長崎薬目利 野田源三郎」の名前があり、彼が武雄の被官として二人扶持三石六斗の禄が支給されていたことも分かる。また、『明治三年惣着到』にも「長崎薬目利 野田源三郎」の名が見え、遅くとも天保年間(1830〜44)中期から明治初頭にかけて武雄に深く関わった人物である。
 前掲の彼の著書『拾品考』は、10種類の舶来植物について多色刷りの図を附して論考したものであるが、この中の鳳梨(ほうり)(パイナップル)の図は、武雄の薬園で書写したものと記され、野田と武雄の深い関わりを語る興味深い記述である。

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